好きになってとは申しません【こたつる】
「宵闇の羽の方ー!!」
悪魔とまで評される無防備に自分に触れようとする彼女が少し不思議で、だから少しだけ気になった。彼女の事だ、言わずとも人の性くらいは分かる筈だというのに。
まるで無邪気に。手を、伸ばすのだ。
初めは、ああ、あれが噂の隠し巫女か、と。その程度の認識。
隠し巫女であるにも関らず名が知れてるというのは、仕様がない事と言える。姿なき忍びであるにも関らず己ですら、公然と其の存在を認められているのだ。しかし純白の巫女と草である忍など比べようもない事。我ながら、この思いつきには呆れる事だった。
「可愛い娘さんに惚れられたもんじゃのう」
主の嬉しそうな声に我に返る。時折、妙な発言をする彼だが、今日の思い付きは更に度を増しているようだ。誰が、誰に惚れただと?
「なんだ、分かっとらんかったんか」
分からない、と首を傾げる己に呆れた様に苦笑した彼はくしゃりと皺だらけの掌で頭を撫でる。
ああ、主のこういう所はあの巫女に似ているかもしれない。
まるで自分は絶対に傷付けられる事はあるまいと云う、根拠のない信頼と、何も言わずとも己の奥を見抜く目。壁に水が染み込むように、落ち着かなさがじわじわと自分を浸食していく。
「あの子はいい子じゃ。ほんまに、いい子じゃ。風魔、あの子は守ってやらなあいかんぞ」
―其れは、任務だろうか?
「そんくらい、自分で考えんか」
分からない。しかし、どうやら主は彼女に死んで欲しくはないらしい。ならば、其の心根を煩わせるような事は一つでも減らしてやろう。
風魔はこくりと、一度だけ頷いた。
彼女に付いて、少しずつ分かった事がある。
無知、深窓の姫、世間知らず。世の評判はどれも正しく、隙だらけで、騙されやすい彼女は忍びである己にでさえ守りには手が余る程だった。弓の腕前は確かではあるが、あれでよくも此の戦乱の世で生きてこれたものだ。
よほど大事にされていたのだろう、傷一つ負わない白い肌に赤筋が刻まれるのかと思えば、いい気味とでも思ったのだろうか。
妙に胸が冷めていくようでもあった。
「宵闇の方…」
ああ、又だ。
闇夜の中。木々の合間に身を隠し、彼女の周囲に耳をそばだてていると時折聞こえる小さな呟き。仲間の武将らは、既に別の床に移っており、己の存在に気付いてるとも思えぬのを考えれば、あれは独り言なのだろう。
やけに快活で明るい彼女にしては、随分と珍しいと思ったが、夜毎に繰り返される其れにそういうものなのだろうと思う様にもなっていた。自分にとって夜の闇は、身を包んで温める存在ではあるが、常人にとっては凍えるような寒さを伴う事もあるらしい。彼女も其れに充てられたのだろう、そう、思っていた。
だから、その夜の自分もきっと其れに充てられ、らしさを失くしていたのだろう。
いつもなら其のまま置いておく彼女の言の葉に、気まぐれにも従ってしまった。
「会いたいです……」
まるで痛々しい顔をして言う彼女に、愚かにも同情したのかもしれない。気付けば、風に木の葉を散らせ、彼女の前に姿を現していた。
あまりに驚いたのだろう。いつもなら喜色満面に飛びかかろうとする彼女だが、呼吸を忘れたかのように固まったまま己を呆然と見つめていた。
しばらく、そのまま放っておいたが、あまりにも長いので、もしや気絶しているのではと不安になりかけた時。
「本当に、宵闇の…!」
両手を合わせ、ようやく彼女は何時もの笑みを見せた。其れを見て、ほう、と安心したのも束の間、みるみる目尻に浮かぶ雫に風魔はギクリとする。
「あ、あれ。あれれ。ご、ごめんなさっ」
謝る合間にもボタボタと落ちる雫は止まらず、ゆっくりと足元の土色を変えていく。
「やだなあ、折角、宵闇っ、の、か、たがっ」
いるのに、と続ける声は既に嗚咽が滲んでいた。
こんな時。
こんな時に、どう動けばいいのか。
忍として様々な任務に当たり、様々な主に仕え、何でも相応にこなせるであろう自信があって。
だから。こんな感情、どうすればいいのか分からない。
「え…」
そ、と目尻を拭った感触に思わず顔を上げた彼女は、髪の隙間から覗いた風魔の顔に少し笑った。
「あら、」
冷静沈着、冷酷無比。
「おかしな顔」
そう呼ばれた忍の姿は何処にも無かった。
「先見と言っても、私は全て見通せる訳ではないんですよ」
月を見上げた彼女は、ゆっくりと語り出した。
「その時の世の流れを言の葉に変える事は出来るけど、それは全てではありません」
人の世は、人の意思で変わって行くものだ。避けられぬ定めなど、本来は何処にもない。しかし、予言が当たるのは、人がそれを変えようとしなかったからだ。
だから、哀しかった。
「繋がらぬ想いを見ました。叶えられぬ願いを聞きました。助けられぬ命がありました」
この力を持っていて、後悔をした事はないけれど。
「全て、背負うと少しだけ疲れちゃいます」
えへへ、と情けなさそうに笑う口元は少し震えていて。それでも涙一つこぼさないのは、その小さな身体に今までも抱えた物があるからなのだろう。
おそらく、隠れ巫女として深奥で人の目に触れられない様にした理由は其処にあるのかもしれない。戦乱の前線に立つ事で、より一層の人の想いを受け取る事になる。その混乱で彼女の精神を病むのを恐れた周囲によって、所謂「隠された」というところか。
ならば今の状況は、随分な苦行となっているやもしれない。
「そうでも、ありません」
背を向けた彼女が、前を向いたまま呟いた。
それが、まさか己の心の内での思いの応えとは思わず、しばし固まってしまう。
おそらく、彼女にとっては何ら不思議な事でも無いのか、口調も変わらず言葉を紡ぎ続ける。
「知っておりますか。私、実は巫女なんです」
突然、明るい声音で言ったのは、既に周知の事実。今更何を、と訝しむ彼に、振り向いた彼女は綺麗に笑った。
「神様の、捧げ物なんです」
息が、止まる気がした。
頭が打たれたように、ぐらぐらと視界が揺れる。
どうして。
どうして、彼女が、無知で、愚かで、世間知らずなどと信じたんだろうか。
「神様の為に、身を捧げるのが」
そう、文字通り。身体を捧げて、奉仕して、お布施を貰うのが。
「巫女、なんです」
月夜に照らされた其の顔は、誰よりも綺麗で儚かった。
「私は戀をしちゃ、駄目でしょうか?」
微かに開いた唇を、しばらくの逡巡の後に風魔は再び閉じる。
問われに応える術も、言の葉も、風魔の中にはなかった。
「やっぱり、宵闇の羽の方はお優しい」
ただ、最後に微笑んだ彼女の顔は、悪くないとだけ思ったのだ。
作品名:好きになってとは申しません【こたつる】 作家名:アルミ缶