耳朶にむつぶ
「そうだな」
もう俺の家についたというのに、腕にしがみついたままのイタリアは俺を見上げた。
「ねえ、また行こうよ」
かまわない、と答えると、わぁ、と息を吸う。
「本当? 嬉しい、ドイツ大好き!」
抱きつかれる。恥ずかしさが血を沸騰させる前に引きはがした。もう、と不満そうな顔をされても、俺は望むようなことをしてやれない。
そのままリビングに入る。いたのは兄さんだけではなかった。フランスとスペインもいる。
「お、ヴェストにイタリアちゃん。おかえり」
「ボンソワール」
「やほー」
三人は口々にイタリアに挨拶した。彼女はにこにこと返事をする。
「どうしたの? 三人がここにいるなんて珍しいね」
「これから飲みに行くんだよ。ヴェストたちも行くか?」
ううん、と栗色の髪が揺れる。食事もアルコールも、さっきのレストランで済ませてあるからだ。いつもより体温が上がった頬が、腕に寄せられた。
「残念だなあ。イタリアみたいに可愛い女の子がいてくれたら、水道水だって最高級のシャンパンになるのに」
フランスは相変わらずの口達者ぶりだ。思わず顔をしかめたが、男はともかく女にはウケるようで、イタリアはくすぐったそうにした。
だが、ちらりと俺に視線を向けたあと、頭(かぶり)を振る。ガードが堅いねえ、と嘆息してフランスは肩をすくめた。
すると次はスペインが間近に寄って、いつものハイテンションで言う。
「イタちゃんが一緒に来てくれはったら、むっちゃ嬉しいんやけど。俺がおごるで」
おい、顔が近いぞ。
「姉ちゃんに叱られるよ?」
ナンパには慣れているからか、かわし方は実に如才(じょさい)ない。それは困るなあ、と引き下がらせた。
「ちぇ、つまんねえの。ヴェストだけいい思いしやがって」
兄さんは年がいも外聞なく唇をとがらせる。だがあきらめは早いので、二人と連れだって家を出ていった。彼女に手を振って見送られながら。
リビングを抜けて俺の部屋に向かった。スーツのジャケットをハンガーに掛け、ネクタイもゆるめる。気が楽になって、深く息をはいた。
イタリアはベッドに腰を下ろして、足をぶらぶらさせている。そして、何気なく口をひらく。
「ドイツはさあ、嫉妬とかしないの?」
「は?」
寝耳に水の言葉だった。レストランで飲んだワインは確か、アルコール度数が高くなかったと記憶しているのだが。
とりあえず彼女の隣に座る。解釈に困っていると、追及が来た。
「さっき、ドイツ、私が兄ちゃんたちに囲まれたときなんにも言わなかったじゃん」
それがどうしたというんだ。
「『イタリアは俺の女だ!』とか言ってくれないかなって、期待してたんだけど」
思い返してみれば、そんな態度だったことに気づいた。甘えるように腕にくっついたり、こっちの様子をうかがったり。……だが。
「俺がそういうことを言うと、本気で思ってるのか」
「ううん」
あっさりと首をふる。俺にしなだれかかった。
「私が勝手に想像してるだけ」
細い肩を抱く。熱い体温が肌になじんで心地いい。呼吸のリズムさえ重なるような気がした。
この状況はもしかしなくても、「いい雰囲気」だ。ロマンチックなセリフの一つや二つは言うべきだろう。
「イタリア」
「ん?」
「あー、その、なんだ」
ムードのある言葉をさらりと言えたら苦労しない。なぜそれに早く気づかなかったのだ。我ながらふがいない。
不思議そうな表情がいきなり強ばって、涙目になる。
「やだよ」
なにやら嫌な予感がした。こういう勘だけはよく働く。
「私、絶対、ドイツと別れないからね!」
そんなに俺の気持ちは伝わってないのか。
情けなさのあまりにため息をつく。ますます誤解したようで、聞き取れないくらいの早口でしゃべり出した。
「さっきのは別に、してくれなかったから嫌いになるとかそんなんじゃないし、ドイツがそういうの苦手だって私、分かってるから――」
手っ取り早く黙らせるために、食後に塗り直した口紅があざやかな唇をふさいだ。ぬめりとすべるような感触がする。
そのままシーツの上に横たわらせた。
「違う」
「え? なんだ、よかったー」
明るい茶の瞳が安堵をたたえてきらめく。目じりにたまった涙をこすってやった。誤解とはいえ、泣かせてしまった罪悪感が痛い。
今ばかりは、羞恥を忘れるしかない。会議で発言するよりも緊張しながら、桃色の柔らかな耳朶(じだ)に流しこむ。
愛している、そんな至難の一言を。
「私も、ドイツのこと、世界で一番愛してる」
彼女に臆する様子はない。同じ言葉を使っているというのに、この差はなんだ。
「好きなら、そう言ってくれればいいのに」
「……すまない」
フランスのように飾った言葉は言えない。スペインのように感情のおもむくまま行動することもない。兄さんのように人目を無視することもできない。
それに、彼女のように自分の気持ちをうまく伝えられもしない。不器用で融通も利かない。思うようにいかずイラついてばかりいる。
嫉妬というなら、きっとそれだ。
「ねえ、口で言えないなら」
たおやかな腕が俺を引き寄せる。瞳がきらめいた。
「代わりに、全身で伝えてよ」
応えるにやぶさかでない。もう一度口づけながら、ブラウスのボタンを一つ、外した。