ネクタイ
例えば、破天荒で我が道を行くクラスメイトと得体の知れない部活動めいたものを作ることになったり、未来人の着替えシーンをあろうことか覗いてしまったり、休日に宇宙人と図書館に行って心地よい惰眠を貪ったりすることも、もしかしたら経験する事があるかもしれない。
何故そんなことを言い出すのかとお思いだろう。
本来ならばここで今に至った経緯というものを懇切丁寧にお伝えするべきだが、残念ながらその要因は大から小までの様々な事象が入り交じっている為に簡単に説明し難く、更に言うならば何故か?などと思い出したくもないという俺の心情を、バファリンの優しさを二倍にしたほどのつもりで察して受け止めて頂ければとても有り難い。
しかし、全く何も事情を知らないと言うものは、これから起こりうる事象に大して咄嗟に反応し難しいものであって、何度、…いや、何百何千とそんな経験を繰り返し、そしてこれからも経験していくであろう俺としては共感かつ同情を生し得ない。
という訳で、何がなんだか分からんこの状況を俺なりに皆さんにお伝えしよう。
オレのネクタイを古泉に貸してやった。ただそれだけだ。
古泉はそれを今ちまちまと結んでいる。
機関にはクールビズ制度は導入されていないのか、ただ単にしていないと落ち着かないだけか、まあ、そんなことはどうでもいい。
しかし、毎日結んでいるはずのネクタイと古泉との格闘は数分経っても終わっていない。
一体何をしているんだ。俺のネクタイは至って普通の学校指定のもののはずだが、そんなに結びにくいものか?そもそもネクタイなんてそれらしくなっていればなんでもいいだろう。
仰るとおりです。と、春風のように爽やかなアイツ、…というキャッチフレーズが今に付いても可笑しくない笑みを浮かべた古泉の手元をよくよく見れば、両手というよりは片手で無理矢理結んでいるように見える。それでは結べるものも結べないだろうと合点がいったが、一体なんのためにそんな事を。否、片手しか使えないのか…?
そういえば先刻まで遊んでいたカードゲームでも片手でしか触っていなかったように思う。
訝しむ俺と目がを合うと、古泉は困ったような笑みを浮かべて肩を竦めて見せた。まるで自分の思考が読まれたかのようなタイミングで無性に腹が立ったのは、図星だからではない。断じて違うぞ。
「すみませんが、もし、お手隙でしたら…」
「何故俺が結ばねばならん」
「その方が効率がいいかと思いまして」
効率良かろうが非常に不愉快だ。ああ不愉快だ。俺にとって一体何の利点がある?
古泉は利点だなんて心外だと言わんばかりに大げさに驚いた表情を作る。…と、普段と変わらない笑顔だが俺にはそう見えた。
古泉に関しては多少の打算が入ろうが知ったことか。これが朝比奈さんなら踏みつぶされたコンタクトレンズだろうがかけら一つ残らず喜んで拾うさ。もちろん長門の場合もな。あいつには何かと世話になっている。まあ、お前にもその労力の何十分の一という程なら無償でも構わんが。
…ちょっと待て、今どうして「ありがとうございます」などと言った?
俺はやるなんて一言も言っていないぞ。
「ええ、ですがネクタイを結んでもらうというのは、誰もが一度は考える男のロマンではありませんか?」
会話の繋がりが根本的な所から間違っている気がしないでもないが、そんなことはさておき、前々から常々考えていた事だが本当に気持ち悪いな。
この状況下でお前に同意出来るヤツが居るなら今すぐここへつれてきて欲しい。確かに古泉の言うことには一理ある。だがしかし、俺の考えるロマンは結んでくれる相手が自分より数段背の低い可憐な少女、…例えば朝比奈さんのような愛らしい人が、あれ、おかしいな~。上手く結べません…と、おろおろしているのを微笑ましく見守りながら楽しむものである。決して見上げる立場の野郎のネクタイを、結ばれるどころか結んでやるという、むしろ興ざめするようなシチュエーションではない。ロマンのかけらなんぞ何一つない。
それもそうですね。と古泉が言う。そしてようやく形が整ったネクタイを古泉は最後の仕上げというようにピンとまっすぐに引き伸ばした。結局いつも通りの自己完結で終わらせる。一体何が言いたかったのか。
「…分かりませんか?」
「全くもって分からんな」
古泉はいつもの笑顔を浮かべつつ、そうですかと肩を揺らした。どこか残念そうだったように見えたのは、俺の気のせいに違いない。