君は春
この広い大地はいつだって寒々しい。大木の育たない大地を見渡せば白白白、そしてあの人の亜麻色。恋慕なのか、尊敬なのか、…執着なのか。もう自分の気持ちなど振り返る気もしない。…ただあの人が欲しい。あの人さえいれば何も要らない。この大地で彼と二人寄り添って生きて行く、それが最高の幸せ。
「…兄さん」
唇からこぼれ落ちた音は白息とともに灰色の空に吸い込まれて決してあの人の耳には届かない。痛い風が頬を打って徐々にぼやけていく亜麻色を逃すまいと、その背中に手を伸ばす。
「やぁ、ベラルーシ!今日も元気かい?」
その瞬間、突如視界が一面金色に覆われて伸ばしかけた手をぎゅっと強く握られた。
…大嫌いなやつがまた来た。
兄さんの敵は私の敵。こいつはいつも兄さんの邪魔をする。ヘラヘラと笑いやがって腹が立つ男だ。その顔を見るだけで吐き気がすると何度言っても笑うことを止めようとしない。他の男と話すなど、兄さんに対する裏切り以外の何物でもない。なのに、こいつは平気で話しかけてくる。
「お前のせいで兄さんが行ってしまっただろうが。早くその小汚い手を離せ…っ」
思い切り奴の手を捻り上げて愛用のナイフに手をかけると、じろりとその馬鹿面を睨みつける。
「ははは…、分かった分かった。だからその物騒なものはしまおうじゃないか」
確かに捻り上げていたはずの腕はいつの間にか手の中から消えていて、ふと後ろを見ればヘラヘラと笑うそいつがナイフを持つ私の手を握りしめていた。
いつの間に…
「…っ、離せ!私にベタベタと触るな!!兄さんが誤解したらどうする…っ」
抵抗を試みるけれどその腕はびくともせずに私の手を握りしめ続ける。ぎゅっと心臓が掴まれたように強く痛んで例の吐き気が体中を襲っていく。
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。
男は気持ち悪い。
いつだって力で押さえ付けようとして、いつだってその視線は欲にまみれている。少しでも気を許せばふらりと近づいてきては女を見下す、そんな気持ち悪い生き物なのだ。兄さんはそんな奴らとは違う。いつだって優しくて大きくてあったかい。笑いかけてくれるのは兄さんだけでいい。…それだけでいい。
「なんでいつもそんなに怯えているんだ?君は…」
「………わ、訳の分からないことを言うな!いいから放せっ!!」
そう一際強く怒鳴りつけると同時に勢いよく自分の腕を引くと、手からするりとナイフがこぼれ落ちて深く雪の積もったこの大地へと消えていった。ただそれをぼんやりと見つめる。
「…なぁ、ベラルーシ、雪は好きかい?」
「嫌いだ。兄さんは暖かいところが好きだから…」
愛するものは全部奪っていく真っ白な塊。何も見えなくなってしまう。兄さんの姿はいつだって吹雪の中にあって、近くに寄ることもできずにただ見つめていることしかできないのだから。寒いと凍えるあの人を抱きしめてあげることすらできないのだから。
「だったら雪のないところへ行こう」
握られていた手へとさらに力が込められて真摯な空色の瞳が私の瞳を捉える。いつもヘラヘラと笑っているはずの顔が急に真面目な顔をするものだから、咄嗟のことに思わず口籠もってしまった。反抗する言葉はいくらでも浮かんでくるのに、この唇がそれを堰き止めて、射抜くような視線から目が離せない。私のすぐ目の前で赤く染まっていく頬の熱が冷えきった私の周りの空気をあたためていく。
「俺のところは雪の降らない場所がいっぱいある。なんだってある。もうナイフなんて持たなくても敵はやって来ないし、寒さにこごえることもない。だから……俺の所に来ないか?」
その声は透き通るほどに強い意志を湛えているのに、私を掴む手は少しだけ震えていて気付かないうちに頬が緩んでしまっていた。慌てて引き締めようとすれどもなかなかこの顔は言うことを聞いてくれない。
…変な奴。
「…行くわけないだろう。お前なんかのところに行ったら兄さんがなんて言うか分からない」
「…っ…そ、そうだよな。ちょっとしたアメリカンジョークってやつさ!…忘れてくれよ!」
一瞬、影の差した表情に視線が奪われる。
「でも…っ」
「?」
「たまになら…行ってやってもいい。に、兄さんのために敵情視察だ」
私を握っていた手からすっと力が抜けて、その隙に急いで奴に背中を向けた。熱くなる頬をごしごしと手でこするけれどなかなか冷えてはくれない。
早く冷まさなければ体がおかしくなってしまう。何か悪い病だろうか。兄さんに移ったら大変だ…
…だってこんなにも熱い。呼吸が苦しくて苦しくて仕方がない。
「……なぁ、ベラルーシ。雪が解けると何になるか知っているかい?」
冷たい風に熱のこもる頬をさらしていると、凛と透き通るような声がまた私の耳に届いた。答えの解りきった突然の問いかけに首をひねる。
「…雪が融けたら水になるに決まっているだろうが。この地域では毎年雪解けの時期は大洪水だ」
「ははっ、馬鹿だな!君は…」
その言葉にかちんときて思わず後ろを振り返ると、そいつをキッと睨みつけた。あの憎たらしい変な笑い顔で私の視線をたやすく絡めとる。
「春になるんだぞ!」
……
…子供か、こいつは。でも、くだらなさすぎて何だかこの顔は笑いたがっているらしい。
寒さに強張っていた唇は緩やかな弧を描いていく。そいつの瞳がまん丸に見開かれたかと思うと私の顔をじろじろと覗きこんできた。
「…なんだ、人の顔をじろじろ見るな。気色悪い」
「…あ、ああ、…うん!やっぱり君は笑ってるほうがいいと思うんだぞ!」
そうケラケラ笑う姿はやっぱり腹が立つけれど、なんとなく気分の悪くない自分がいることに驚いた。
…来るのだろうか、この地にも。枯れ果てて疲れ切って、ひとりぼっちなこの大地にも。雪が融けたら、この灰色の空はその瞳のような青空へと変わるのだろうか。
…来るのだろうか。鮮やかに花々が咲き誇る季節が。
「とりあえず雪が解けたら敵情視察第一弾を行うから覚悟しておけ」
「ああ!春の花が咲く自慢の庭園に君を招待するさ!」
Fin.