log2
鬼の攪乱もかくや、という事態に為す術も無く、万事屋に住まう男二人はほとほと困り果てていた。
目の前に佇む少女の大きな瞳からは透明な大粒の雫がほとほとと止めどなく流れ落ち、ぽたりと音を立てては木目に黒い浸みを作る。
何時もの勢いはすっかり形を潜め、遠慮する様に己の着物の裾を握り締めた小さな手を、銀時は複雑な思いで見詰めた。
―――銀ちゃんは、何処にも行かないアルか?
珍しく陽も昇りきった遅い時間にのそりと起きて来た神楽に対し、日頃の己の愚行を棚に上げ流石に一言注意するべきかと思っていた銀時は、その言葉にピタリと動きを止めた。
不安げにこちらを見詰めて来る眼差しには、どこか必死さを感じさせるものがある。
銀時は真意を測る様に神楽を見返すと、弾かれた様に彼女のまるい瞳に涙の膜がたわむ。
――勝手に、何処にも、行かないアルか?
確認する様に告げられたその言葉に、返す台詞など見付かる筈も無い。
銀時は情けなさを伴う苦い思いを胸の奥底に仕舞い込みながら、無言のまま神楽の柔らかな髪に指で触れた。
―――それが、切っ掛けだった。
元より気力で辛うじて止めていた様なものである。それが仄かな体温で呆気なく崩壊してしまった。
その事実に銀時は驚愕し、そして困惑した。
この手を離せば彼女は泣きやむだろうか。けれどもそれは、大事な何かを取り溢す様な気もした。
己の葛藤を余所に、目の前の少女は声を押し殺して泣いている。それが痛々しくて堪らない。なのに、どうしていいのか判らない。
せめてその涙を拭ってやるべきか――そう思った矢先、ぎしりと床板を踏みしめる音が耳に届く。ゆっくりと視線を音のした方へと向けると、新八が眉を顰めてこちらを見ていた。
事情は分からずとも異変は察したらしい少年は、ゆっくりと二人の方へと歩み寄る。けれどもその眸には困惑が色濃く滲んでいるのを、銀時は見逃さなかった。
依然泣き止まぬ少女に為す術も無く、銀時はただひたすら小さな頭を撫で続け、新八は嗚咽を漏らすその背をそっと撫であやした。
問われた言葉に返す応えはなくとも、せめてその涙だけはと苦し紛れに言の葉を紡ぐ。どうかこれで泣き止んでくれと柄にも無く願いを込めながら。
「オイ、神楽。おめーの好きなモン何でも買ってやっから、いい加減泣きやめ。夢ぐれーで何時までもピーピー泣いてんじゃねぇよ」
「良かったね、神楽ちゃん!何でも良いんだって!ホラ、銀さんの気が変わらない内に言っちゃいなよ!」
常ならば窘められるその行動も今回ばかりは大目にみられたらしく、新八は己の言葉に自ら乗ってくれた。
それに幾許か安堵し、銀時は言ってみろと神楽の頭を軽く小突き促す。
「っ…じゃ、あ、……ひっ…お…腹、いっ……食べ、た…っ…」
しゃくりながらも返って来た応えは実に彼女らしいもので、銀時はホッと胸を撫で下ろした。
「わーった、わーった。腹一杯、な。りょーかい、承知した」
「ほ、んと…アル、か…?」
「男に二言はねーよ。な?新八」
「勿論ですよ。ね、だから神楽ちゃん。何食べたい?今日は神楽ちゃんの為に奮発するよ」
「じゃあ酢昆布を保存用に100箱、食べる専用でまた100箱。それからご飯に今話題になってる巨大みそラーメンと、でにぃずのスペシャルハンバーグセットにデザートを上から順に全部。あ、ご飯はサラサラお茶漬けとご飯ですよ、それから卵かけご飯の三タイプ用意するアル」
今の今まで泣いていたとは思えない程の流麗さでつらつらと並び立てられたその「お願い」に、銀時はおろか新八すらもあんぐりと口を開けた。
予想だにしなかった急展開に頭がついていかず、処理に悲鳴を上げている。
それでも何とか食らい付こうと、果敢にも一歩前へと進んだのは少年の方が先だった。
「か、神楽、ちゃん…?」
「約束したアル」
恐る恐る呼び掛けたその声を一蹴するかの様に、冷徹にそれは響いた。
未だに訳が解らないといった新八とは裏腹に、何かを察したらしい銀時は一瞬だけしまったという顔を見せたが、それすら今となっては後の祭りだ。
勝ち誇った様な彼女を目の前にして、苦々しい思いが湧き起こる。
「莫迦な男共ネ!今日が何の日か忘れたアルか!」
にやん、と意地悪く笑うその顔を見て、漸く思い至ったらしい新八は真っ青になって助けを請う様に勢い良く銀時へと振り向いた。
然し、彼女の方が一枚も二枚も上手だった。
「侍に、二言は無いアルな?」
手を打つ前に先手を取られ、二の句も告げない。
一体誰に似たのやらと嘆く二人の男を後目に、無垢な少女はこれまた無邪気に喜び、春も麗らかな午後は何時と変わらずに、けれどもいつもとは少しだけ違う日常が、そうやって流れて行ったのである。
end.
*四月馬鹿の日の話。