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長谷川桐子
長谷川桐子
novelistID. 12267
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幸福に劣情

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静雄が午睡から目覚めた折、薄く開いた瞳が真っ先に映したものは真白な背中であった。

なんだこれは夢の続きか、と。届くはずもない距離にも関わらず思わず手を伸べれば、その気配に気づいたのか、白い背の主がくるりとその半身を捻る。

「あ、起きましたか?」

水音、うるさかったですか?と。動じることもなく訊ねるその身体は何も身につけておらず。若木のような手足や薄い腹や細い腰や白い臀部が些か目に毒だ。
寝ぼけ眼の男がそんな不穏なことを考えているとはつゆ知らぬ少年は、注がれる視線を気に留めることもなく濡らして絞った手巾で身体を拭いていく。
水気を含んだ漆黒の髪の毛からぽたりぽたりと雫が落ちる。それが白い背に吸い込まれるように流れていくのを目で追っていけば、自然と視線が下方へ向いてしまうので、慌ててそれを引き剥がす。

「なあ、帝人」

なんですかー、と振り向きもせずに答える声には警戒心の欠片もない。それに内心複雑な思いを抱きつつ、静雄は少年の背に声を掛ける。

「……衝立とかよ、買ったらどうだ?」

六畳一間と、二畳ほどの台所からなるこの部屋に風呂なんてものはない。それゆえ風呂屋へ行くことになるのだが、その代金も二人分が毎日……ともなれば馬鹿にならないので、暑い季節はこうして台所の流しで身を清めたりする。
静雄自身は身なりなどあまり構わないのだが(なにしろ封じられていたあいだは風呂どころの話ではなかったのだから)以前、3日間ほど身体を流さずに居たら、食餌の際にあるじである少年から「…においます」と言われ「外に出るお仕事しているんですから、少しは気をつけて下さい! トムさんは何も仰らなかったんですか?」……と、獣姿に転変させられた後、頭から水を掛けられて洗われた。
しかしながら。毛皮を丹念に泡立てられ、綺麗に流された後に丁寧に拭われて熱風で乾かされた上で「もふもふですねぇ」と抱き付かれるのは悪くなかった。いや、悪くないどころか、凄く良かった。
ただし、またこうしてくれと告げれば「横着しないでください」とにべもなく断られたのだが。


「そんなのわざわざ買うの、勿体ないですよ。使わないときは邪魔になりますし」
「……そうかもしれねーけどよ」
「いまさら恥ずかしがるような間柄でもないでしょう、男同士だし、それに―――」

忘れたんですか?と、肩越しにふりかえり、少年はさも可笑しげにわらった。

「向こうにいたときは、一緒に入ったりしていたじゃないですか……お風呂」

覚えている、と返す言葉はどうにか搾り出すことができた。
そうだ、あの山の中の庵のような家にふたりきりで暮らしたあいだは水やら薪やらを切り詰めるためになんだかんだと一緒に入浴していたのだった。今となってはどうしてそんなことが出来ていたのか全くわからないのだが。

「ああ、でも見苦しいですよね……すみません」

もう少しですから向こう向いていてくださいとの言葉に、静雄はもごもごと不明瞭な言葉を返してどうにか身体を反転させた。
見苦しい筈がない。……見苦しくないから困っているのだ。

熱の篭ったため息を零しつつちらりと背後を窺えば、既に衣服を身につけた小さな背中が見える。それにほっとしながらも、惜しい事をしたと思考してしまい、獣は熱い息を飲み込んだ。
作品名:幸福に劣情 作家名:長谷川桐子