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アニマ -3

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待ち合わせの場所まで行くと、彼は本を読んで待っていた。乾燥した大きな手に文庫本。クラフト紙のカバーが、タイトルを隠している。声を掛ける前に彼がこちらに気がついた。
「やぁ、今日は待ち合わせに遅れなかったんですね」
「それじゃ俺がいつも遅れているみたいじゃん」
 不機嫌に返すと、彼はからっと無邪気に笑った。あれ、こんな笑い方するやつだっけ、と思う。
「まぁ、いいでしょう。カフェに入りましょうか」
「うん」
「寒くなりましたね」
 俺は午前中に話してきた縁起の悪い話を頭の隅に追いやりながら、彼の後についてゆくことにした。広場に面したテラス席。意味があるのかどうかはわからないけれど、とりあえず運ばれてきたココアは温かかった。
「さて、どこまで話しましたっけ。あぁ、そうだ。餓鬼道ですね。あそこが終わったばかりでした。さて、ここまでくると、予想はつくかと思いますが、僕は畜生道に行くことになります。
 僕は牛でした。白い牛。そんな意外そうな顔しないでくださいよ。あれです。畑とかで働く牛です。乳牛じゃないですよ。僕は小さな畑で飼われている牛で、よく働く牛でした。
 さて、その家には子供が数人いて、僕は末の子供によく気に入られていました。しかし、その子供は彼の両親に嫌われているようでした。 彼はとても敬虔で、いつも何かに、たとえば神だとか仏だとかに、祈りを捧げているようでした。夜、家の人間が寝静まった後にそっと僕の体に触れて、泣きながら祈りの言葉を呟きます。僕が牛でなければ暗唱だってできるようになったでしょう。
「僕はね、牛さん。神さまを信じている。僕は愛されているんだって、信じている。たとえそれが実在していなくても」
 彼は非常に不幸だ、と僕は思いました。だからせめて、僕は彼を愛そう、と決めました。彼は僕に優しかったからです。
「君みたいにきれいな牛を僕は見たことがないよ。きっと神様が僕を哀れんで君を連れてきてくれたんだね」
 彼は自分を納得させるようにそう言って、働き続けました。親に殴られても、暴言を吐かれても。
 彼は成長するごとに、辛い仕事をさせられるようになりました。もちろん僕も一緒に畑を耕したり、重い荷物を持ったりするわけですが、仕事量は明らかに少年のキャパシティを超えていました。
 彼は虐待から逃れるために、僕の住む小屋に暮らすようになりました。或いは、両親からそうするように言われていたからかもしれませんが。
 彼は小さいのにとても荒れた手で僕の体を撫でます。僕はそれがとても気持ちよかった。彼の悲しそうに伏せた目からぽろぽろと涙がこぼれます。とても優しい少年でした。僕は彼のためなら救いだって願えたかもしれません。
 彼は痩せて、小さいまま年を重ね、痩せて骨ばかりになりました。満足に食べ物を与えられなかったためです。運の悪いことにその年は日照りで畑の作物も少なかった。
 ある日、珍しくその家の母親が僕をつれてどこかに連れて行こうとしました。僕はできれば少年とずっと一緒にいたかったのですが、主人の言うことに従わなければ、また少年に怒りの矛先が向かうに違いありません。
「待って」
 後ろから少年の声がしました。本当にか細く、掴んだらぽっきりと折れてしまいそうな声です。
「待って、牛を殺さないで」
 少年は母親に泣いてすがりました。
「バカを言わないで。この牛を食べなきゃ、私たちが死んでしまう」
 母親の言うことはもっともでした。僕が食べられなければ、この家族はきっと死んでしまう。そして少年も。僕は、少年が死んでしまうよりは、僕を食べて生きてほしかった。
「牛がいなくなったら、僕は本当に何を信じて良いかわからなくなってしまうよ」
「うるさい子だね、あっちへゆきなさい」
「待って、牛さん、待って」
 彼はあまり食べ物をもらっていなかったからでしょう。傷だらけの体を引きずるように数歩進みましたが、潰れるようにその場に倒れ込みました。
「この世には神も仏もいないんだよ。だいたいそんなもんがいるんだったら、なんで私たちはこんなに飢えなければならないんだい? こんなに我慢を重ねなきゃならないんだ」
 母親は吐き捨てるようにそう言って、倒れ込む少年から顔をそむけ、僕を裏庭まで引っ張ってゆきました。日照りの所為で、裏庭の植物は枯れていました。母親は僕を庭の杭につないで、父親を呼んできました。父親は大きな刃物を持って僕の前に現れました。ところが、次の瞬間、彼は叫び声を上げて倒れます。
 蛇でした。毒蛇が、父親を噛んだのです。父親はその場で倒れ込み、口から泡を噴いて倒れました。母親がそれに駆け寄ります。子供達が家から出てきて、父親に駆け寄りました。駆け寄らなかったのは、少年ただ一人でした。呆然とした顔で、どうしてよいのかわからないといったふうにその場に立ちすくんでいました。
 家族は父親を家に引きずってゆきました。少年は僕の綱を杭からほどきます。
 少年は僕を連れて、家の敷地から出ました。途中何度か家の方を振り返りましたが、追ってくる人はいませんでした。少年は時々思い出したように「どうしよう」と呟きました。
 家の近くの川は涸れ果てていて、見渡す限り作物の育たない荒野が続きます。二日目に彼は倒れました。しかたがないので、僕は彼を乗せて歩きました。少年は、僕の背で小さく祈りの言葉と神の名を呟いたきり、ちっともしゃべりません。
 大分歩いて、もうどれだけ歩いたのかわからなくなった頃に、洞窟があったので、少年を降ろして休ませようとその中に入りました。宗教的な香りのするその洞窟は、ひんやりとした空気をしていました。
 奥には白くて美しい、何かの像がありました。
 少年はすっかり軽くなっていて、僕は彼を像の前にそっとおろしました。彼はもう息をしていませんでした。僕は猛烈に悲しくなりましたが、悲しさをどう表して良いかわかりませんでした。
 像が僕に「救われたいか」と尋ねました。僕は漸くわかりました。僕はもう死んでいたんだと。そしていつものようにそれを壊しました。泣きながら。少年を救わなかった仏など、僕はいりませんでした。」
 俺は唐突に泣きたくなった。この哀れな男を何とかしなければ、と思った。ココアはもう冷え切っていた。俺は彼に触れようと思って手を伸ばしたが、躊躇ってやめた。
「どうしたんですか?」
「なんでもない」
「そうですか」
 彼はぼんやりと広場を見やった。夕方の時刻になっていて、子供達は家に帰って行く。俺は冷たくなったココアを飲み干した。
「僕らも帰りましょうか」
「そうだな」
 口の中はとても甘い。彼が手を振るのを、俺は見ていた。俺は酷く悲しい気持ちで家路に就く。街灯が、黄色く石畳を照らしている。
作品名:アニマ -3 作家名:ペチュ