事実無言
臨也は、人類全体を彼なりの持論でもって愛している。
その営みも、人間模様も、善も悪も綺麗も醜いも含めて。全て。
臨也自身はそれを微塵も疑っては居ないが、池袋という街で描かれる人の姿が、取り分け自身を惹きつけてやまないことも、よく自覚している。
何故か、はわからない。
とりあえずは、池袋という街が、臨也を愛し、求めて止まないのだと前向きに解釈していた。
だから臨也も、池袋が好きだ。
街並みを、街に暮らす人々を、愛している。
その愛して止まない街の片隅で、ビル風に煽られた臨也は、ファーつきのコートの襟を掻き寄せた。
池袋に来るのは、彼にとって最早ライフワークと言っても良かったが、生憎今日は『仕事』で来ていた。
情報の回収と、取引相手との交渉で、丸一日に近い時間が経過していた。
息をつくと、白い呼吸が立ち上る。
灯の少ない裏路地、日付変更線をまたいで真っ暗になった夜気の中では、色のついた吐息が自己主張している。
先に見える表通りには、家路に着く人の波が駅への道を流れていた。
臨也の歩幅はあと数分も必要とせず、あの流れに辿りつく。
そして終電へと急ぐ人々と一緒に、家へと帰るのだ。
愛して止まない街に来て、愛する人々を見ることもなく。
そうして考えてみると、あの流れのなんと恨めしいことだろう。
池袋への愛情が、そのまま裏返ってしまいそうだ。
ひどく自分勝手なことを考えて遅くなった歩みが、ひときわ強く吹いたビル風をまともに受けて止まる。
「……寒っ」
ぶるり、と身体にふるえが走る。
弟のこと以外には冷静冷淡な秘書が居たならば、もっと厚着をすればいいのに、と冷めた目で忠言することだろう。
月が変わってから、気温は真冬と言って差し支えないほど下降していた。
情報屋なんてやっておいて、それを知らない筈もないだろうに、と。
しかし、臨也としても伊達や酔狂でいつも同じ黒コートとインナースタイルを通しているわけではない。
それなりのポリシーがあってのことだ。
そのポリシーは風に煽られて、首を竦めて背を丸めさせて居るのだが。
同じコートでもさすがに裾長めのやつにしておけば良かったかと、両腕をポケットに突っ込んでしまったとき、ずしり、と後ろに掛かる重さがある。
知覚するのは、首の真後ろ。
「…………ッ」
一秒にも満たない間に、臨也の脳内をめまぐるしいほどの思考が駆け抜ける。
俊敏な動作でうなじの真下にある、ファーつきのフードの中に手を突っ込み、掴んだものを危うく手から取り落とし掛けた。
「あっつ! 何これ!?」
どうにか落とさずに”それ”を手に取るのと、臨也の横を人影が通りすぎるのは同時だった。
冷え込む深夜に、ワイシャツとバーテン服の上下しか着てない服装に、思わず顔を顰める。
見てるこっちすら寒くなりそうな薄着は、厭というくらい見慣れた格好。
愛して止まない人類の、唯一の『例外』という、忌々しさを絵に描いたような男、平和島静雄が、そこに居る。
これから家に帰るのだろう。のそりと歩く左手には、夜食が入ってると思しきコンビニの袋がぶら下がっている。
臨也はそこでようやく、手の中のものをまじまじと見た。
ほっとココアと書かれた小ぶりの缶が、行儀よく収まっていた。
高すぎる温度が、指に痛いくらいに染みる。
「……ココアってさ」
ぺたり、と缶を頬につけると、じんわりと温度が融け合う。
狼狽を隠すように、相手に聞こえるように、ゆったり歩く静雄に並んで、ぶつぶつと苦言を並べる。
「子供みたいなことしないでよね。まさかそんな子供みたいなことする知り合いがいようとも思わなかったからさ、ヘンに驚いちゃったじゃないか。しかも、ココアってさ。味覚まで子供っぽいっていうか。俺甘いのあんまり好きじゃないんだけど」
まくし立ててから、珍しいことにキレもせず、言い返しても来ない相手を横目で窺う。
真っ白な中華まんを頬張る口元が目に入り、はああ、と深くため息を落とす。
吐き出す端から、白く染まっていくそれを眺めていると、なんだか色々馬鹿らしく感じられる。
ほっぺたに当てていたココアの缶下ろし、プルタブを引いた。
「熱……」
熱しきったひどく甘ったるい飲み物を、無言でちみちみと舌を湿らすように飲む。
隣の男も、緩慢な動作で中華まんを頬張っている。
沈黙だけが落ちているゆっくりとした歩みは、やがて喧騒に満ちた表通りへと達した。
帰るなら、ここを道なりに進んでいかなければならない。
人波に頓着した様子もなく、静雄はゆったりと通りを渡った先の裏通りへと歩んでいく。
静雄の家は、その通りをさらに抜けた先にあることを臨也は知っていた。
臨也たちと別の方向へ進んで行く人波は、先ほどよりまばらになっている。
時計は見てないが、終電が近いのはわかる。
帰るのなら、引いていくこの波に乗っていかなければいけない。
明日も仕事があるのだ。一日働き回った身体が、十分な睡眠をと訴えている。
帰途に急く人々と比べて、静雄の足並みはひどく遅い。
ゆっくり、ゆったりと。
それでも、逆側の通りに辿り着いて。
臨也も、その隣に並んだままだった。
言葉もない連れ合いが進む道は、どんどん人気が薄れ、やがて足音以外が静寂に包まれた。
足音だけを耳にする、臨也の手の中で、指先に温もりの残滓を残しながら、アルミの缶が温度を失っていく。
生ぬるくなったひどく甘ったるい飲み物を、その最後の一口を、臨也は殊更ゆっくりと嚥下する。
甘い液体がすべり落ち、口内に、喉に、べったりと甘さが張り付いた。
「これ、飲んでたらさ。すぐ飲み切らなくて終電逃しちゃった」
通りの賑わいが嘘のようなひっそりとした路地裏に、臨也の声だけが静かに響く。
「だからさ、今日シズちゃんちに泊めてよ」
隣を歩く静雄は、とっくに中華まんをたいらげてしまっている。
聞こえていない筈もないだろうに、あー……と、うすらぼんやりしか生返事がこぼれるだけで。
ゆったりとした歩行は、静雄に取って見慣れた、臨也も知らないわけではないアパートの一室に辿りつく。
カチャリと、乾いた鍵の音が響く。
「…………………狭ぇぞ」
鍵よりも、小さな声だった。
ドアを潜って、二人ぶつかるように抱き合いながら、臨也は声にならない叫び声を上げる。
そんなの。
そんなことは、知ってる。知らない筈がない。
俺が。
俺が帰ろうと思えば足なんて幾らでもあることを、君が知っているくらいには。
携帯に入っている運び屋とタクシー会社の番号はそらでも言える。
余裕もなく、噛み合うように唇をくっつけながら、ぽろぽろと形にならない言葉が落ちていく。
でも、俺は帰りたくないんだ。
だって、ここは愛する街だから。
俺を愛してくれる街だから。
何が悪い。
何がいけない?
二人とも知ってて、隠して、何がいけないんだろう。