悪魔の証明
「駄目、飲めそうにないわ」
「牛も駄目か」
グラスは暗紅色の液体で満たされている。辰巳の方へ押しやりながら、沙子は溜息をついた。
「どうして駄目なのかしら……」
以前、森で狩った鹿の生き血を無理して啜ってみたことがある。けれども沙子のからだは鹿の血を受け入れられず、吐き出してしまった。あれはひどかった。今でもふとした瞬間、鉄錆臭のどろりとした生ぬるい味が口の中で再現されて、沙子は気分が悪くなる。野生の獣の味だ。あんなものは到底飲めない。
辰巳は受け取ったグラスを隅の方へ追いやった。農家に侵入して血をとってきたはいいが、徒労に終わってしまった。もしかしたらという期待がなかったと言えば、きっと嘘になる。けれど案の定、沙子は飲めなかった。
「多分、沙子たち起き上がりは人間の血しか飲めない」
「……そうみたいね」
認めたくないが、そうとしか思えない。人間の血は簡単に喉を滑って空腹を満たしてくれるのに、家畜のそれは受け入れがたく、ただ生臭いだけ。どうして家畜ではいけないのだろう。人の血を啜る以外に空腹を満たす術がないなんて。
わかりきっていたことなのに、こうして事実を突きつけられると重く苦しい。これから先も、沙子は人間を襲わなければ満足に食事もできないし、生きられない。もっとも沙子を思い病ませたのは、いくら自分がそれを忌むべき行為だと認識していても、空腹になればそんな考えも吹き飛んでしまうということだ。正真正銘の化け物だわ、沙子は胸中で静かに絶望する。
うなだれる沙子を前に、辰巳はふと思う。家畜も、どんな食べ物も駄目だった。なら、
「人狼の血でも駄目かな」
「やめて。きっと無理に決まってる」
「試してみたことは?」
「……人狼はないけれど」
「じゃあ、グラスに溜めるから、待ってて」
そう言って懐からナイフを取り出した辰巳の腕に、沙子はすがった。懸命に首を振ってやめてと繰り返す。
「そんなことをしても無駄にきまってるわ」
「やってみる価値はあると思うけどな」
「駄目、認めないわ。屍鬼でも駄目だったのよ、人狼も駄目に決まってる」
言い切る沙子の目はぎらぎらと頑なだった。辰巳はふうと息を吐いて、ナイフをしまう。沙子は安心したように表情を緩めた。そんな沙子に、辰巳はおどけたように瞬いた。
「それは、本当に人狼の血は屍鬼と同じだと思っているから? それとも、ぼくの血だから?」
「辰巳」
「人狼と屍鬼は似通ってはいるけど、それを言うなら人間的な特徴だって残しているんだ。試してみて損はないと僕は思うけどな」
「本気で言っているの? そんなこと、できないわ」
「嫌がらせだと思ってる? ぼくは、きみの苦しみを和らげてやりたいんだよ。最近、食事はしたか? していないだろう、目に生気がない、身体も痩せた。そのままじゃ、いつか飢えて死んでしまうよ」
辰巳に指摘されて、沙子は叱られた子供のように身を縮こまらせた。確かに、最近食事をしていない。人を襲うのはほどほどにしようと思って控えているからだ。けれど我慢できなくなるといつのまにか唇が鮮血に染まっているのだから、自分はどうしようもないと思う。
人間の血しか飲めない沙子の正体がばれれば、いつだって化け物と迫害されてきた。せめて人狼のように人間の食べ物も口にできればいいのに、屍鬼の身体は消化してくれないし、運が悪ければそのまま腐ってしまって大変なことになる。人間と大差ない人狼と違って、屍鬼の身体は死んだ瞬間で凍り付いている。身体は動くのに心臓や肺、脈や体温も死体のそれだ。
沙子は自分の身の上をひどく嘆いている。屍鬼になりたくてなったわけでも、人を襲いたかったわけでもない。でも屍鬼となって甦生してしまった。人の血でなければ生きられないから襲い続けるのだが、断続的に吸血していたら人間は死んでしまう。人殺しはいつの世だって大罪だ。沙子は吸血鬼として憎まれ、狩られる存在になってしまった。死にたくない、死なないためには人の血をのまなくてはならない。沙子はただ狩りを楽しんでいるわけではなく、生命を維持させるためだけに血をもらっているだけなのに、人間は許してくれない。沙子を化け物だと罵るだけだ。
せめて人を襲わずに空腹を満たせるものがあったらまだ良かったのに、沙子の身体は人間の血しか欲しがらない。
そんな沙子の葛藤は手に取るようにわかっているから、辰巳はありとあらゆるもので屍鬼の空腹を満たせないか試してきた。家畜は駄目、固形物もだめ、液体はのめるが血のように飢えをしのげるわけではない。
いちかばちか、屍鬼の血も試してみた。結果は前述の通りだったのだが、屍鬼で試せたのならば、人狼の血も試してみてもいいのではないかと辰巳は思う。受け付けないかもしれないが、もしかしたらということもあるかもしれない。辰巳はそう説得してみせるが、沙子は聞く耳を持たない。頑是無い子供のように嫌だと首を振り続ける。
「沙子、なにもぼくは殺せと言ってるわけではないんだ。ここ、首筋にでも噛み付いてみればいい。まずかったらそれはそれ、諦めるしかないけど、人狼でもいけたら、飢えはぼくでしのげばいい」
まだ辰巳が人間で、沙子に血を与えていたときのように。あのときできたのだから、要領は一緒のはず。試すのは簡単だ。
沈黙が降りる。夜明けにはまだ程遠いが、呼吸しない沙子が押し黙ると、あたりはすっかり静かになる。沈黙を破ったのは沙子のかぼそい声だった。
「わたしは怖いの、辰巳」
「怖い?」
「あなたの血でも良ければ、わたしはずっと辰巳に依存してしまう。それこそ憑かれたように辰巳を襲い続けることになるわ。仲間なのに平気で襲う化け物になる。人狼だって、絶対死なないわけじゃないもの。襲われ続けたら、死んでしまうかもしれない。そんなのは嫌だわ……」
辰巳をなくしたくない、死んだらひとりぼっちになってしまう。そう零す沙子に、辰巳は一瞬虚をつかれた顔になって、すぐに破顔した。くすくす笑いながら、沙子の髪の撫でてやる。
「――依存、か。そんなの、」
耳元で囁くと、沙子はぎょっと顔をあげた。辰巳は何を今更と言った風に笑った。
「お互い様だ」
辰巳がいなければ沙子は満足に生きられないと同じように、辰巳だって沙子がいなければ今頃死んでいた。沙子は辰巳に居場所を与えてくれる、彼も沙子同様、たったひとりの仲間を簡単に失いたくは無いのだ。自分で食事が済ませられ彼女が良心をいためずに生き長らえたら、それでいい。
「ぼくは君に生きていて欲しいんだよ。試すだけ、これで駄目だたらそういう生き物だと割り切ってちゃんと食事すること。いいね?」
口調では尋ねているくせに、辰巳は沙子の返事など待っていなかった。沙子が首を振りかけたその瞬間、辰巳は手に持っていたナイフを肌の上に滑らせた。