次のはじまり
早朝の待ち合わせ場所に戻って来た時には、既に日はとっぷりと暮れていた。時間でいうなら酒場が盛り上がり始める頃合だろうか。
今日一日近くを共に過ごしたもう一人は身のこなし軽く鞍から降り、荒く鼻息立てる自身の馬を丁寧に撫で褒めはじめる。
俺の馬も息が上がっていたので倣って地に降りた。風と汗で乱れたたてがみが明るい月の光に浮かび上がる。それを撫で付けながら、無理をさせ過ぎた事に少し気が咎めた。
一通り乱れたたてがみを直して、今度はもう一人の、ハンガリーの馬に労いをかける。
交代で俺の馬を労うハンガリーは実に嬉しそうで満ち足りた顔をしていた。この笑顔とももうお別れだ。
だから俺はその前に、宙ぶらりんで止めてしまった事に念を押す。
「お前、ちゃんと坊ちゃんに相談しろよ」
おいこらハンガリー。そこで目をぱちくりするな、首傾げるな。
何についての事かすっかり抜け落ちてるらしく妙な間が空く。自衛の、と追加で俺が呟いてそこでようやく、ああ! とすっきりした声が返された。
「うん。そうしよう…かな。本当言うとね、オーストリアさんも屋敷の皆もずっと心配してくれてて、ちょっと悪いなぁって思ってはいたし…」
だろうなと思った。
こいつの事だ。恐らく傘下に下った身で供をつけてもらう事に抵抗を覚えたんだろう。
それも自分の事ではなく、そうする事によって口さがない連中からオーストリアが受ける嘲笑をだ。今だって自分よりも、あくまで周囲の為にときた。
んなもん気にすんな、提案してる時点で坊ちゃんも百も承知の上だろうから遠慮なく受けろ。と、俺は言わなかった。あの眼鏡を引き合いに出すのが癪に障ったから。
「そうしろそうしろ。で、思いっきり大部隊編成させて帰国しやがれ。お前んチの連中びっくりするぜぇ」
「自分の家の里帰りにそんなにいらないわよ」
「ちっ、あいつの財政圧迫させてその隙に俺様が大国にのし上がる計画が」
「はいはい、このお馬鹿さんが」
ここ数年来、屋敷で見かけた表情よりも、もっとちびの頃に近い笑顔で軽く叩かれる。ただあの坊ちゃんの真似はいらなかった。
ハンガリーは俺を叩いたその手を開いて差し出してきた。右手。こいつの利き手。
「今日はありがと。誰かと一緒に思いっきり走ったの、久しぶりだから楽しかった」
まさか言われるとは思わなかった礼に俺は戸惑って反応が遅れた。
それをハンガリーは何か勘違いしたらしく、あ、左利きだっけ、と差し出していた手を下げようとするので、反射的に掴み取る。
「ケセセ! いーぜぇ、何ならこれから毎日遠乗り付き合ってやるよ…!」
「それはご免こうむるわ…!」
握手にしては強く握りすぎてしまい、かといって離したくもないので誤魔化す様にさらに力を込めて握る。
負けず嫌いの相の手は、俺が加減している事を知ってか知らずか誘導されたふざけた遊びに全力で応戦してきた。それでいい。
ぐぎぎと適度にお互い悪ノリした所で、力を緩めた。自分からその手を放したくなかったが、向こうから離れていくのもそれはそれで寂しかった。中空で手首のスナップきかせているのも地味にクる。ま、俺も同じ事してるけどな。こいつはさり気なく力が強い。
「ったく。私、もう行くわよ」
「おう。後もうそんなねぇけど、気をつけろよ。一応、な」
「そっちもね。夜盗に遭っても過剰防衛しないでよ。一応、ね」
互いの腕を揶揄するやり取りは随分久しぶりな気がした。多分今、端から見たらどっちも似たような顔つきだろう。
ハンガリーが再び騎乗する。俺はもう一度ハンガリーの馬を撫でてから二、三歩離れた。
「それじゃ、またね」
別れの声を合図に馬が走り出す。今日の行程を鑑みれば実にゆっくりとした速さであいつが小さくなっていった。
その背が爪ぐらいの大きさになって、あいつはわざわざ振り返って手を大きく振ってくる。
俺も同じように振り返したが、すぐに地平線の向こうに去ってしまったハンガリーに見えたかどうかわからなかった。
「…またねときたか」
そこにぼんやりと立っていた俺は、気が付けば盛大なため息一つと一緒にその場にしゃがみこんでいた。
ハンガリーから遠乗りに誘われて以来、感情のふり幅が落ち着いてくれなかった。
今日だって突然変な事聞いてきた時には心臓に悪かった。
「…変わっちまったけど、変わってねぇよ…畜生」
確かにハンガリーの変化はさぞ目覚しかったろう。穏やかな佇まい、やわらかな口調。だが本質は当時の、俺がハンガリーと知り合った時からの輝きを保ち続けている事にあいつは気付いてない。
馬と共に駆けている時の奔放さも(本当に楽しそうだった)、無邪気に信用しすぎる所も(戦いに身置いてたんなら簡単に利き手出すな馬鹿)、無自覚に人をかき乱していく所も(神様後で色々聞いてくださいすみません)。
そこまで考えて俺は我に返る。汗をかきまくった体で秋の夜風に当たり続けてたら間違いなく体調を崩す。地味に体は冷え、さらに座り込んだ姿勢のおかげで血の巡りの悪くなった足が少し感覚を麻痺させていた。
俺は一度屈伸をして、長いこと留まっていたその場を離れる。
今からならまだどこか適当な宿に泊り込めるだろう。
もう十分に休んだとばかりに馬が鼻先を俺に押し付けてくる。こいつにも美味い飯食わせてやらないと。そういえば腹が減ったな。
と、そこで昼過ぎにハンガリーから貰った木苺の事を思い出す。潰れないように荷の中に収めたそれを、宿で飯を食うまでのつなぎにと探し出す。
袋から取り出せば小粒なものばかりが出てきた。大き目の粒は昼に食べてしまって既に無い。
今だあいつの手の感覚の残る手のひら(訂正。さり気なくなんて可愛いレベルを超えた握力をあいつは持っている)で、それらは月光に照らされ、確かな色付きを持って存在を主張していた。
一息に食べてしまっても良かったが、何故だかそうする気になれず、結局一番小さな実を一つ、摘んで口に放った。
やっぱり甘酸っぱかったが、昼に食べた木苺よりももっとずっと甘かった。
『次のはじまり』