君の我儘が欲しい
「うあ。……うう。マスター。マスター」
何度もその名前を呼んだ。ぎゅうと胸元の服を両手で握り締めて、かぶりを振る。マスター。ぽろぽろと零れる言葉は、無意識のものだった。
強く瞳を閉じれば、真っ暗になった視界にまた先程の光景が蘇ってくる。それと同時に、目頭が熱くなって、またカイトは勢いよくかぶりを振った。そうしなければ、溢れそうだった。想いも言葉も涙も。
どうして居合わせてしまったのかと思う。どうして、あんな場面を見てしまったのだろう。幾らなんでも、タイミングが悪すぎた。なにも、俺じゃなくても良かったのに。
どうしようどうしよう。マスター。
今すぐに会いたいと思った。柊と一緒にいるマスターにではない。柊を見つめているマスターではない。自分だけを見て、自分だけに笑い掛けてくれるマスターに、カイトはただ会いたかった。名前を呼んで欲しかった。そして自分だけを見て、触れて欲しかった。
ぐずぐずとカイトはその場に崩れ落ちる。ぱちりと瞬いた瞳から、ついに涙がこぼれた。
「カイト」
「っ!!」
そっと優しく名前を呼ばれて、カイトは驚きと恐怖で肩を跳ねさせる。恐る恐る視線を上げれば、そこにはきょとりと瞳を丸めたカイトのマスターがいた。
そして彼は、まるで子供の様にぼろぼろと涙をあふれさせるカイトを見た瞬間、ぎょっとしたように目を瞠る。カイトの目の前へと膝をついて、出来るだけ優しい仕草で頬へと触れた。
「どうしたんですか。何かあったんですか?」
「うう……。マスター」
「はい。俺はここにいますよ、カイト。ほら、泣かないでください。子供みたいじゃないですか」
甘く囁く言葉を聞いても、カイトは泣く事をやめない。ただはらはらとその青い瞳から涙を零すばかりだ。はらはらと、雫がマスターの手を伝う。
「マスター、は、……あの人の事が、すき、なんです、か」
「あの、人?」
「はやて、ひいらぎさん……」
青い瞳が、静かにマスターを捉える。かち合った視線のその奥に、隠せない疑問と、不満と悲しみがあった。ぐっと眉を寄せる仕草は、ひどくマスターの胸を締め付けた。ぎりぎりと、音をたてて浸食される。
零れる声と、落ちる涙は、ただ必死に目の前のマスターを責めていた。マスターは緩慢に首を傾げる。
「先輩? どうしていきなり先輩の話に、」
「さっき……」
「はい」
「仲が、よさそうに……していたの、で」
「…………あ、ああ」
かちりとマスターの頭の中でパーツが噛みあう。そして、見ていたんですねと溜息とともに呟いた。その言葉を、カイトは逃すことなく拾う。バツの悪そうな声音に、またカイトの瞳からは涙が零れた。
溶けてしまいますよと瞳から流れる涙を掬おうとした瞬間、強くその手を掴まれた。きつく、痛いほどに。マスターの瞳が、驚きで見開かれる。
「すき、なんですか。オレよりも、あの人の方が好きなんですか」
「カイト」
「オレは、マスターが好きです。マスターが一番です。……あ、あなた以上に大切なひとなんて、いない、です……」
必死に懇願の言葉を紡いでいくその姿は、とても小さく見えた。その声と手が震えている。それでも彼は決して視線を外さなかった。ただ己のマスターのみを見つめている。じっと、逃がさないと言う様に。
「カイト。カイト、聞いてください。そのまま、俺を見ていてください。――カイト。俺も、お前が一番大事ですよ。お前以上の存在なんて、いません」
「で、でも、さっき」
「あれは、先輩がふらついたから咄嗟に支えただけです。それが、……困った話ですが、抱き合っているように見えたんですね。――カイトの考える様な関係に見えましたか? 俺が、あの人を愛していて、あの人と付き合っていると?」
聞けば、びくりとカイトの肩が跳ねる。そしてふるふると、彼はかぶりを振った。透き通りそうな青の髪が動きに合わせて揺れる。
「おれは、マスターの事が好きです。ま、マスターがいうならそれは真実で、マスターが言うなら絶対です。……オレのこと、一番に想ってくれてるんですよ、ね。貴方がそう言ってくれるなら、おれは、それだけ、で」
「幸せですか?」
「は、い……」
頷いて、カイトは笑った。じっとマスターを見つめている。本当に、それで納得してしまうあたり、彼は純粋なのだろう。いや、先程の言葉には一つの嘘もなかったが、こうも素直に信じてもらえるとも思っていなかった。けれどカイトのこのような態度を目の前にするたびに、マスターは実感する。純粋で真っ直ぐで脆く可愛いボーカロイド。マスターの言葉で泣いて、笑う。その姿を、愛しく思わないわけがない。
「大丈夫ですよ。泣くことなんてありません。愛しい俺のボーカロイド」
091128
嫉妬深くて泣き虫で、心配性なボーカロイド。紡がれるマスターの言葉に、カイトはそっと瞳を閉じた。ああ、オレのマスター。呼べば、甘い声が返ってくる。本当は、それだけでよかった。傍にいて、その甘く優しい声で呼んでくれれば、それだけでカイトは満足だった。
(おれは、わがままだ)
その我儘をマスターが望んでいることを、カイトは知らないのだ。