幸せなひと。
グラスに玉雫の浮かぶアイスティーを飲んでいたポーチはその鈴の音に目を上げ、待ち人の姿を認めると手を上げた。
「こっちよ」
きょろきょろと視線をさまよわせていた青年はやっと気がついていそいそとポーチの向かいの席に腰をおろし、ついてきたウェイトレスにコーヒーを頼む。昔はコーヒーなど一口も飲めなかった男が随分とおとなになったものだ。ポーチは少しおかしくなって笑った。
「何だよ?」
「ううん、別に」
やっぱりお互い年を取ったのだなあと思っただけだ。口が裂けても言いたくないが。
「………? まあいいけどさ。で、話ってなんだよ」
コーヒーがやってくるわずかな時間も待てないのか青年はさっさと話を切り出した。忙しいところを無理を言ってきてもらったのだからしかたあるまい。
「あんたに報告があるのよ」
「報告?」
「そう」
青年は怪訝な顔してポーチを見つめる。今までの彼の経験からすれば、ポーチがこうやって改まって話をする時はたいていがいい話ではない。
一瞬席を立とうか悩んだが、ポーチが今まで青年が見た事もないような晴れやかな笑顔を向けたので、立ち上がれなくなった。
「あんたに一番先に伝えたかったのよ、――――タケル」
そのときやっとコーヒーが運ばれてきた。
熱いコーヒーを思わずごくん、と飲み干してしまい、焼け付く程の液体がみぞおちを滑り落ちるまでタケルは身悶えた。なんとか置いたカップが高い音を立てる。
「やあねえ、そんなに驚く事ないじゃない」
ポーチがアイスティーをかき混ぜると底にたまったガムシロップが奇妙な歪みを描いた。
タケルは今だ信じられないと言う顔をしている。ポーチの口から「カンジーと結婚する事になったから」と告げられ、思わず、冷ますつもりで口に近付けたコーヒーを一気に飲んでしまった。お陰で口の中が火傷だらけになってしまった。ひりひりと舌が焼けている。
「オマエとカンジーがねえ………」
長年の友の真面目で少し気弱な顔を思い浮かべながら万感の思いを込めて息を吐き出した。
「いや、似合わないッてわけじゃないけどさ、ポーチとねえ……」
「どーゆーイミよ?」
きっと苦労をするんだろうな、と言うのはだれしも思っている事だろう。あえてそれを口に出すつわものがいないだけで。
「いや、だから、その。あのオクテなカンジーがどうやってプロポーズしたのかなあって気になって」
「あたしがプロポーズしたのよ」
「ええっ、ポーチがあ!!??」
「いけない? カンジーといると、すごく落ち着くのよ。それで、ああ、こういうのも幸せのカタチの一つなんだなあ、って思ったの」
そういって微笑んだポーチがあまりにも幸せそうだったからタケルは少し羨ましくなった。そして自分が彼女に結婚の事を告げた時も自分もこんな顔だったのかな、と思った。無性に愛妻の顔を見たくなる。
「幸せなんだな」
「そうよ。そしてこれからも」
自信に満ちた顔。そうだ、幸せにしてもらう事なんて考えていない。きっとこの女は自分で幸せになるのだろう。その背に輝く翼で。
「結婚おめでとう」
自然にその言葉が溢れた。
「ありがとう。あんたにそう言って欲しかったの」
ポーチは笑いながら残っていたアイスティーを全て飲み干す。
グラスの中の氷がカランと音を立てた。
「さ、そろそろ行かなくちゃ。あんたも仕事残ってるんでしょ?」
「あ、ああ。まあな」
「あたしこれからデートなのよね」
そう言えば今日、カンジーは午後から半休をとっていた気がする。多忙ゆえ、こうやって無理に休みを作っているらしい。健気な事だ。
「人が仕事してる時にデートかよ」
「きりきり働きなさいよね。ヘッド様!」
そういってテーブルの端にあった伝票に手を伸ばす。しかしそれよりも早く白い紙切れはタケルの手に落ちた。
「ここはオゴっといてやるよ。結婚祝いに」
立ち上がったポーチは「安いわね」とは言いつつ笑っている。
「式には呼ぶわ。じゃあね」
「ああ、またな」
再びドアの鈴がなってポーチは軽やかに店を後にした。
残されたのは、空になったグラスとタケル一人。
なんとなく取り残された気分になる。ずっと、三人は、三人のままのような気がしていただけに、今日のポーチの言葉に心底驚いた。
タケルにとってポーチは「女」というよりも「仲間」だった。だからそういう対象に見た事は一度もない。だが、カンジーはちゃんとポーチを女と見ていたんだな、と思うと不思議な気がした。
むかしから彼女には『お子ちゃま』とは言われてきたけれど。
今日見た彼女はひどく綺麗だった。
やっぱり昔の自分は子供だったのだろう。
「さーて、帰って仕事するかな〜」
店を出たタケルを迎えたのは澄み切った青い空。
とりあえずタケルは仕事場よりも先に自宅に戻ったという。
金の縁取りがされた招待状がタケルの家に届いたのは数週間後の事――――