Ego sum panis vivus.
薄暗い部屋の中でたったふたり、投げ出された腕の中にすっぽりおさまるようにして眠る。
身体の温度と、心臓の声がひどく痛い。
この男を抱いたのはこれで何度目だろうか、そんなことは瑣末な問題だった。この男が何故、自分を許したのか、そちらのほうがよほど、大きな問題なのだから。
この男と、俺と、最初はたったひとり、彼女を想う仲間だったはずだ。彼女がしあわせならそれでいいと、そこまで思えるほどの想いの共有者。それがいつしか共犯者のようになってしまっていた。彼女への想いは色褪せてなどいないのに、別のベクトルでこの男と関係を重ねた。それが共犯の理由。彼女が手に入らないから別の想いに走った―――そうではなくて、そうではなく、ただ、抱きしめられて涙が出そうになった、そうして後戻りなどできなくなって、この男がそれでいいじゃないかなどと笑うから、うやむやになってしまった。彼女への想いはなにひとつ、偽りないのに、この男の想いが欲しいと、同じだけの熱量で願ってしまう。
「お人好し過ぎじゃね?」
自分より上背のある男の寝顔は、綺麗に整っている。
男の腕は、しなやかにオレを抱きしめる。その温度が心地良くて、しゃがみこみたくなるほどの歓喜に身体が震えたことをよく覚えている。あれが安堵感というものだったのかもしれない。男がオレに教えたのは、還るべき場所の与える安寧だった。なにひとつ、確かなものを持てずにいた―――彼女という存在すら、自分自身を確固たる何かに縛り付けてはくれなかったから―――オレに、男が与えたのは居場所であったに違いないのだ。
彼女はオレを選ばなかった。そして、男もまた、彼女には選ばれなかった。
それでも彼女がしあわせだと笑うなら、オレと男はそれでいいと笑いあった。何故なら彼女をしあわせに存在させる可能性であることが、オレと男―――と、あと四人―――の、ひどく不確かな存在理由でもあったから。オレたちのために存在する彼女には、彼女のために存在する何かを持たない。彼女は彼女の選んだたったひとりのために、存在する。存在しているのだ。彼女には選ぶしか出来ない。彼女に予め与えられたものはなく、その点において彼女は孤高であって唯一無二だった。だから、彼女に選ばれなかったオレたちに、還る場所は証明できない。彼女のために存在しているオレ、は成立せず、選ばれなければ存在しないも同じ。彼女はオレたちのファム・ファタール―――運命の女性―――で、彼女の指先ひとつ、心ひとつで全てが決まる。
男がまだ、彼女を好きだと言えば、オレはきっとこの手を離すだろう。音をかき鳴らすおおきな手のひらをとって、眺めやる。男は確かに自分を抱きしめた。そんな顔をするなと、男もまた、泣きそうな顔をして、優しい抱擁だった。すべらせた自分の指が、男の手のひらの上でひどく異質な存在のようで、のどの奥が熱くなる。この指先、手のひら、爪のかたち、骨の感触も、男を構成する全てがうつくしいのに、どうしてオレなど甘やかすのか。
欲しい温度と欲しい言葉と欲しい場所と、全てあますことなく与え、全てをあますことなく受け入れるこの男の、その理由を欲している。彼女の何もかもは自分の手のひらに納まらなくとも諦められたのに、この男のそれは諦められない。朝、起きて、目が覚めて、この男の心がどこかへ飛んでいってしまったら、それを考えると恐ろしくて苦しくて、たったひとつ欲しいものの、真実を知る。
「カズキ、なあ、お前はオレを殺せるな」
男の手のひらに触れた自分の指先の境界は曖昧なのに、決して、溶け合うことは出来ない。この男の何もかもが手に入るなら、彼女への想いだって消せるだろう。それが例えば、オレの存在理由だったとしても、―――それでも。
作品名:Ego sum panis vivus. 作家名:ながさせつや