そして続く世界に
綾部は目を覚ました。
雲一つない青空。時に吹く風はまだ冷たさを残して肌を刺した。
大きく息を吸うと、しんと冷えた空気が気管を洗い流すように肺に流れ込む。花冷えの季節の澄んだ空気が美味しかった。
ざく、ざくと音がする。忍術学園の第六学年に在籍する食満留三郎は、その不穏な音に首を捻らした。その音を不審に思ったからではない。その音に覚えがあったから振り返ったのだ。
「綾部」
長く波打った髪をどろどろにして鋤を構える後輩の姿に、やはりと食満は声を漏らした。一方で、その台詞には何故此処に居るのかという疑問も含まれていた。
夜明けから一刻程度。軽くここら辺を走ってから朝食に行くかと思っていた食満が居る其処は、広大すぎる敷地の学園内でも外れと言って差し支えない場所だ。
生徒が鍛錬する為にと残された自然な形の林。緑茂る中、一人鋤を携えている後輩の姿は異様なものがあった。食満がその姿を疑問程度にすませることが出来たのは、綾部喜八郎という後輩が常日頃から風変わりであることを知っていたからだ。
穴掘り小僧。
用具委員会の長を務める食満からすれば、迷惑この上ない後輩であった。
またこんな所に穴を掘っているのか。ともすれば窘めるつもりで声を掛けた。
「──」
綾部は此方をふ、と見たかと思えば、すぐに興味を失ったかのように再び鋤を握りなおした。ざく、と地面に突き立てる。
ざく、ざくと音を立てて掘る。
「綾部、何してんだ」
声に出した後、何を愚かなことを、と食満は自分の発言を後悔した。何をしてるなどと見れば分かることだ。穴を掘っている。更に言えば一人用の塹壕である蛸壺を掘っているのだ。
それでも、思わず訊かずにはいられなかったのだ。
何をしている。
そんな顔で。
「─…を」
風が吹いた。
風変わりな色をした綾部の髪の毛がふさりと揺れる。真っ直ぐな瞳は瞬きすら忘れたように見開かれている。その表情は何度も見たことのあるものだった。
「──を、掘っているのです」
食満はその単語が解らなかった。
聞き取れなかったわけではない。ただ理解ができなかったのである。薄い唇が呟いた言葉が解らなかった。
何を、と訊き返す間もなく、綾部は再び鋤を地面に突き立てた。
ざく、ざくと音を立てて掘る。
(掘っているのです。)
(墓を、掘っているのです。)
食満は、その意味が卒業するまで解らなかった。卒業した後も、解らなかった。
不気味なほどに整った無表情で涙を流す綾部喜八郎という後輩を、解ることが出来なかった。
それは哀しいことではなかった。
綾部にとって別段哀しいことではなかった。
ただ、食満にとっては咽喉に魚の骨が刺さったような奇妙な異物感を残したままであった。
解らないことは哀しいことではない。
ただ、食満は解りたかった。
それだけの話である。
地獄の様な乱世をまるできらきらとした宝物のように変えてくれた。それは、地獄を最も深い場所で見ることを運命付けられる者になるための場所だった。
山中、学園長から命じられた遣いの途中で見つけた背中には見覚えがあった。
「久しぶりだな、綾部」
振り返る顔立ちは、記憶にあるものよりもずっと大人びていた。
当然だ、あれから何年が経ったのだろう。土井半助は脳裏で掌を翳して指折り数えようとした。が、それが大して意味のないことだと気付く。
何年経とうと同じだ。何年経とうと綾部喜八郎が自分の教え子の一人だと言うことには変わらず、また何年経とうと自分があの学園で生徒たちを地獄に送り出す役をしていることに変わりはない。
「元気でやっているか」
「おかげさまで」
ぺこりと人形のように頭を下げる所作は、彼が今よりも頭ひとつぶん程度背の低かった頃となんら変わらない。思わず綻んだ頬をそのままに青年と呼んで差し支えない教え子を見遣る。長かった髪の毛は半助が覚えているそれよりもまだ長くなっていた。忍をするのにその髪は妨げにはならないか、と思ったがそれを口にするのは憚られた。学園を卒業した以上生徒と謂えども相手はプロの忍であり、半助が口を出すのはお門違いであった。
それでも、綾部が自分の教え子の一人であることは変わらなかった。
心を乱したいわけではなかった。けれど、この子にだけは伝えたいと思ったのも誤りではない。
「綾部」
「はい」
「田村が、先のツキヨタケ城の戦で鉄砲隊として出陣したのは知っているか」
「──いえ」
それだけで十分であった。続ける必要など無かった。薄い唇が、みき、と小さく呟いた気がした。
ぽつりと地面を濡らした雫の意味を問う必要なんて無かった。それを望んでいたのは半助なのだ。残酷なことをしているというのはわかっていた。
それでも消え失せかけたものを思い出させてくれる涙が、どうしても必要だった。残酷なことをしている。わかっていた。
「─そうですか」
淀みなく続けられる声は震えてなどいなかった。
月はまばゆいほどに煌いていた。藍色に染まる空を照らすその夜は、とうてい忍稼業など出来るはずもない夜だった。
「痛かった、でしょうか」
ぽつりと。
落とされた言葉に、半助は返事が出来なかった。
ざく、ざくと音を立てて掘る。
いつからか始まったのか、始めたのかなどわからない。忘れてしまったのだからわからない。
言葉は朽ちて、ただ掘るしか出来ない。
その身体は残っていたのだろうか。その四肢はあったのだろうか。その目玉は宙を見ていたのだろうか。その口は天を喰らおうとしていたのだろうか。
綾部に知る術はない。
だってもう彼らはいないのだ。綾部の知らぬところで、いつの間にか彼らは還っていたというのだ。
息を吸い込んだ。肺を冷たい空気が満たして、痛かった。
(掘っているのです。)
(墓を、掘っているのです。)
愛しい彼らの墓を。彼らへの想いの墓を、行き場の失われた弔いの穴を。
黎明が訪れるよりもはるか前。暁でさえない夜更け。綾部は鋤を握り地面を抉る。天に還る朋友達への自分の想いは、彼らが溶けるには重荷になるのを知っているからこそ。
(痛かったかい)
(苦しかったかい)
(もっと、生きたかったかい)
問うことなど出来ない。言葉が返ってくることはない。
ぽたり、ぽたりと濡らす雫を拭うことはしなかった。する必要がなかった。閼伽水の代わりになどならないだろう。それでもよかった。
ざく、ざくと音を立てて掘る。
それでも続く日々に
地獄のような乱世に
きらきらとした輝きを教えられたことは、幸だったのだろうか。不幸だったのだろうか。
それでも続く日々を
美しい世界を望むことを
綾部喜八郎は幸せだとおもってしまった。
あの輝かしい日々に、
思って、しまったのだ。