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長谷川桐子
長谷川桐子
novelistID. 12267
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先立つ憧れだとか

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久しぶりに静雄さんが弓を引いているところが見たいです

さし入れの肉まんをはふはふと頬張りながら告げると、彼は二個目のあんまんに伸ばした手を止めて「あ?」と短く言葉を返した。
来良学園は昨日から冬期休暇に入った。相変わらず部活はほぼ毎日あるけれど、休みのあいだは朝から始まってお昼には終了する。その後も残って自主練をしていた僕の携帯に『いまなにしてる』とメールが入ったのは30分ほど前のことだ。
『学校です。部活が終わって今は自主練してます』そう返信すれば『わかった。いまからいく』とすぐに返ってきて……そして「…よぉ」と本人がやってきたのも、それからさして時間が経たないうちだった。
的に向けての半面が常時開け放たれている弓道場は、屋根があるとはいえ殆ど屋外のようなものだ。昼抜きで練習していたこともあって、あたたかいさし入れはとても嬉しかった。でも、それ以上に、静雄さんに会えること自体がすごくすごく嬉しかったのだけれど。
記録のための小さな文机が置かれた一畳ほどのスペースに二人並んで座っているので、自然、静雄さんを見上げるかたちになる。静雄さんはマイペースに二個目のあんまんの裏の紙をぺりぺりと剥がし、ふたくちであっさりとそれを食べ終えると、じっと見あげている僕の目をまっすぐに見下ろして言った。
「いいけどよ……交換条件な」
代わりに帝人は何してくれんだ?
先ほどまであんまんを持っていた指先をぺろりと舐めながらそんなことを言われてしまえば、かっと顔に血がのぼるのも致し方ないだろう。そんな僕の顔を見て静雄さんはさも愉しげに笑った。「期待してるぜ」って何をですか、何を!……訊ね返すのは怖いのでやめておいた。

静雄さんは「んー……」と伸びをしながら腕を回し、着ていたダッフルコートを脱いだ。その下からあらわれたのは私服ではなく、来神の制服である学ラン。……コートの下から覗いていた黒いスラックスからそうじゃないかと思っていたのだけど、やっぱりそうだった。ちくりと痛む胸に、僕は思わず瞳を伏せる。
高校3年生である静雄さんは受験生だ。休み中でも学校へ行くことはあるだろうけれど。もしかしたら、今日はどこかの受験日だったのではないだろうか? そう考えて、すぐに、試験だったらこんなにはやく終わる訳がないか、と思いなおす。
たとえ、今日が受験の日じゃなかったとしても、静雄さんが受験生であるという事実は変わらない。来年の3月には、来神高校を卒業してしまうということも。
その先のことを、なぜか静雄さんは僕に話してくれない。具体的に言うと、志望校を教えてくれないのだ。「受かったら教えてやる」その一点張りで。
だから、僕は覚悟をしている……つもりだった。静雄さんはどこか遠くの学校に行くことになって、4月までにはさよならをしなくてはならないのかもしれない……そうなってもみっともなくうろたえない覚悟を。
それなのに―――
(全然、駄目だ)
こんな些細なことで、心を揺らして落ちこんでいるようじゃ、あと数ヶ月で覚悟なんで出来るわけがない。

「帝人?」

ぼんやりと黙り込んでしまった僕に気づいた静雄さんが学ランを脱ぎながら怪訝そうな顔を向ける。慌てて「な、なんですか?」と返せば「弽貸してくれ」と言われてまた慌てる。弽は弓を引く右手にする手袋のようなものだ。僕のものでは静雄さんには小さすぎるだろう。
「ええと……たしか、この辺に―――」
用具入れの中をごそごそと探ると、先輩たちが置いていった弽やら胸当てやらが入っている箱が見つかった。
カッターシャツの左腕を捲くりながら、静雄さんは箱の中を覗き込み、無造作にその中のひとつを手に取った。
「弓は……お前の借りるな」
「え、ああ、はい」
あたふたと弦を張った弓を手渡すと、静雄さんは素手のままそれを引いて「軽っ」と声を上げる。……そりゃあ、静雄さんが引いていた竹弓と比べたら、僕の弓どころかこの道場にあるどの弓だって軽いでしょうよ。という言葉は心の中で留めておく。
矢はさすがに僕のだと短すぎるので貸すことは出来ない。静雄さんは勝手知ったる様でずかずかと道場の端に向かうと矢立の中から一本の矢を取り会の姿勢で長さを確かめると「これ借りるぜ」と言い放った。……あれ、矢霧くんのだなあ……ごめん、ちゃんと綺麗に拭いて返すから。

静雄さんをよく見ることが出来る位置を陣取って正座をする。ぴん、と背筋を伸ばして見あげれば静雄さんは少し照れくさそうに笑った。

「……んな顔して見んなよ…」

言われてどんな顔だろうと思いながら自分の顔に手をやって首を傾げていると、今度は可笑しそうに笑われる。

しかしそんな穏やかな表情も的に向かうまでのこと。矢をつがえて構えを取った静雄さんの表情は真剣そのもので、そこに僕の入る余地などない。ぴんと張り詰めた空気は触れたら切れそうな程だった。

(ああ。でも―――)

これが僕が望んだもの。憧れて、焦がれて焦がれて……決して、届かないと思っていたもの。
カッターシャツの下で綺麗な筋肉がすうっと伸びていくのが見える。やっぱりかっこいいなあ、そう思いながら息をつく。
ずっとずっと見ていたい。時間が止まってしまえばいいのに。そんな愚かしいことを考えた僕の思考を打ち破るように、静雄さんに射抜かれた的がぱん、と乾いた音をたてた。

作品名:先立つ憧れだとか 作家名:長谷川桐子