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箱舟

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「あんたが俺を縛ってるはずなのだ」

鼻唄でも歌い出しそうな上機嫌で津野田は言った。
のにー?
首だけ後ろを振り返って、津野田はわらう。振り返った頬に触れた指の温度は冷たい、振り返った視界に映る表情は厳しい、
「髪のことじゃねえよ?束縛のことだよ?あんたが俺を縛ってるんじゃなかったっけ?」
あだ。髪引っ張んないでよ!俺のキューティクルが死んじゃうでしょ!この髪フェチ!あっ、痛い痛い痛い痛いごめんなさい!!!!

俺たちの関係はと言えば、よく例えるならシーソーみたいな。あっちを上げればこっちが下がり、こっちを上げればあっちが下がる……機嫌。縁の下の力持ちでもいないと同じステージに立てないのかも。
「まるで俺があんたを縛ってるみたいなのだ」
そう言ってにへらとまた笑い掛けると、つれない旦那は額に深い深い皺を刻んだ。おーこわいこわい。でも俺はもう知っている。

「………前を」
「ふあ?」
「前を向いていろ。結べない」
「あ、そうね。めんごめんご」
…旦那が深い溜め息を吐いた。思わず吹き出した俺の額に、旦那の鉄拳がめり込んだ。床に突っ込みそうになったけど、旦那が髪を掴んでいるので突っ込めない。なんとか意識を下界に繋ぎ止めて前を向くと、旦那はまた無言に俺の髪を結い始めた。…俺はもう知っているのだ。

「住めば都だねえ」

俺の言葉の意図を、旦那は訊かなかった。ただ旦那は、沈黙を持って応える。この沈黙を苛立たしく思うことがあったなァ、なんて。話を聞いてるのか聞いてないのか、肯定してるのか無視してるのか、この仏頂面じゃあわからないと。思ったりもしたもんだ…
髪に触れる冷たい指を、愛しいと思えるくらいに俺は狂ってしまった。

「………あ、できた?」
振り返った俺に、旦那は無言の肯定を示した。指先が滑るように、髪から離れていく。さながら黒髪の川を白魚のように。ふと視線が絡んで、俺は誤魔化すように自分の髪に触れた。
「ん、いい感じ――……って髪止め?何?」
指先に何か固いものが触れた。金属でも木でもない。プラスチックのような何か。旦那が差し出した鏡を受け取って開くと、旦那は俺の後頭部の方でもう一枚の鏡を開いた。会わせ鏡の要領で、俺の鏡に髪飾りが映る。
「………うわあ。なにこれ高そう。鼈甲?どうしたの?幾らしたの?て言うか何で?」
旦那は一個しか答えなかった。

母の。

「…あーはいはい。なにこれくれるの?」
旦那はクールに無言の肯定をまた。俺は溜め息を吐くとわらった。ありがとう。俺はもう知っているから。
「似合う?」
「…………」
「肯定、と言うことで。へへー」
「…………お前は」
「ふあ?」

旦那は溜め息を吐いた。でも、それは、ちっとも嫌そうではなかった。旦那は苦笑にも見えなくはない表情を浮かべて、一言。

「馬鹿だな」
「失礼しちゃう!!!!!馬鹿って言う方が馬鹿なんだから!!!!」
「そうか、馬鹿か」
「そう馬――……なに言ってんの、あんた。悪いもんでも食べた?」
「…………」
「……ここで無言やめなさいよ」

まあ、いいよ。俺はわらった。だって俺は知っているからさ。あんたが本当に俺のこと嫌いなら怒りもしないことくらい。触ったりしないことくらい。
俺のこと好きじゃないなら、一番大好きなお母さんの髪飾りなんか、持ってきたりしないよ。

「俺さー」
座ったまま見上げた天井は高かった。ごつごつした岩肌。地面だって床とかそんな高尚なもんじゃあない。そもそもが拷問施設である倉は、本来なら住むことに全く適していないけど。俺はふっと力を抜くと、後ろの存在へ背中を凭れた。振り払われはしなかった。
「…俺ね」
理知的な銀の瞳が、上から俺を覗き込んでくる。内側から切り裂くような視線ではない。ただ、柔らかく、ぬるま湯にも似た、かつての俺達が嫌悪したような。
…手を伸ばして触れた頬は、やたらと冷たかった。恒温動物なのほんとに?基礎体温何度なの?今度測ってやろうか――?

「……何が可笑しい?」
「いや、別に?大したことじゃなくて、ただ単にさー」
「……ん」
「俺さ、あんたのこと嫌いじゃないよ…ってね?」




作品名:箱舟 作家名:みざき