暦巡り
芒種 6月5日
チカリ、と、薄暮の中にほのかな灯火が瞬いたような気がした。よくよく確かめようと日本は目を凝らす。蚊遣ぶたから立ち上った煙が夜空に溶けた。
真昼のジリジリと身を焦がすような暑さも夕暮れとともに移ろい、入相の頃にもなると涼やかな風が庭木の枝間を吹き抜けていく。夕涼みをかねて縁側で一献と洒落込んではみたものの、薄着では少し肌寒く感じるくらいだった。梅雨を目前に控えていたが、流れる風にいまだ雨の季節の気配はない。
チカリ、また、光った。
日本が口を開くより先に、「蛍だ!」と、その小さな明かりを指さして、アメリカが嬉々とした声を上げる。
そう、蛍だ。
「これは珍しい。我が家に蛍が訪れるなんて、久方ぶりです」
予期せぬ来訪者に目を眇めた。本当に随分と懐かしい。ゆらゆらと揺れる蛍火は最初の一匹に呼ばれでもしたのかまた一つ、二つと光点を増す。それでも、以前のように明かりの代わりになるほどとはいかなかった。蛍が暮らせる環境もだいぶ減ってしまったのだ。
「そういえばさ、こんな風に君と蛍を見たことがあったよね」
「ええ」
アメリカの言葉に頷いて、日本は手の中の杯を傾ける。
「もっと、ずっといっぱいの光がキラキラ踊ってて、夏なのにクリスマスみたいだなって思ったんだ」
思い出話に花を咲かせ、屈託なく笑うアメリカ。その当時のことを日本もよく覚えていた。もう、一世紀以上昔のことだが、蛍の群れに目を奪われ、無邪気にはしゃいだ声をあげるアメリカの姿は脳裏に焼き付いて忘れることはない。
「あの時はさ、俺と君が恋人同士になるなんて、ちっとも考えてなかったんだぞ」
紆余曲折を経て、実際に恋仲になるのはもう少しあとのことだ。
「そうですね。私も、あの頃は本懐を遂げられるとは思ってませんでした」
日本にとってアメリカは新しい世界に降り注ぐ一条の光だった。恋いしく思えども、その願いが叶うはずもないと、思いを伝えることすらあきらめていたのだ。相思相愛の満ち足りた、それでいて少々騒々しい日々を送ることになるなんて夢にも思っていなかった。
「なあ、それって――」
アメリカの瞳が一驚に彩られる。いつもは空気を読まない若者も、どうやら察しが付いたらしい。
「君はあの時から俺を好きだったってことかい?」
「私の気持ちは、今も昔も、何一つ変わっていませんよ」
百年の時を経て暴かれた真実には、もはやなんの意味もないだろう。
微苦笑を浮かべながら、日本は杯を置いた。アメリカの頬にそっと触れる。夜風に冷えた恋人の素肌は指先に冷たく、しかし、ほんのりと上気していた。
「……月が綺麗ですね」
ぽつりともれる、低い声音。宵闇を照らすのは十六夜の月で、それは確かに美しくあったが日本は視線をちらりともそちらに向けようとはしない。見つめるのはただ、傍らの愛しい人。
「……I love you too」
ささやき返された言葉に、日本の心は多幸感で満たされていく。ああ、幸せだと穏やかに思う。アメリカも今、自分と同じように幸福を感じてくれているのだろうか。そうであれば、嬉しい。
そして、どちらからともなく口付けを交わした。重なり合う衣擦れの音。
酔いとはまた別の火照りが、胸の奥に広がる。絡めた指が、離し難い。
「いいのかい? 蛍が見てるよ?」
「……そうですね。風も冷たくなってきました。中に入りましょうか」
「君は人の目を気にするだけじゃなく、蛍に見られるのも恥ずかしいんだ?」
アメリカの少し意地悪な台詞に、日本はくすりと笑った。
「だって、こんなにも可愛らしいあなたを誰の目にも触れさせたくないんですよ。……それがたとえ蛍でも」
ささやかな恋心を隠していた頃は、アメリカが隣にいるだけで――それだけでいいと思っていた。
それなのに、ああ、自分は全くもって欲深くなってしまったものだ。
耳まで真っ赤に染めあげ、ぱちぱちとまばたきを繰り返す恋人を見つめながら、日本は微笑みの裏でこっそり一人ごちた。
END