これからまた春が来る。
前年の結婚記念日、ローゼスは夫妻とともに日本にいた。そこに嫁いでいった夫妻の愛娘が、冬から春にかけて重病に苦しんでいたからだ。彼女を子供の頃からかわいがっていたローゼスも辛かったが、両親の心痛はどれほどだったろう。幸い、母の看護と父と息子の尽力で徐々に健康を取り戻していった彼女は、三月の夫妻の結婚記念日には冗談が言えるほど回復していた。
『ママ、もう一回、日本式の結婚式を挙げたらいいわ。はじめは真っ白なキモノを着て、途中できれいな色のに着替えるの。とってもすてきよ』
目をキラキラさせた奥様に、旦那様は
『わしゃ、あんな窮屈そうなものは着ないぞ』
とあわてていらっしゃった。帰国するときには、奥様のためにどっさりキモノを持って帰られたっけ。
そんなことを思い出しながら、ゆっくりと車をスタートさせる。
運転する車も、送っていく会社も、帰っていく家も、お嬢様も、この三十数年でだんだんと大きくなってきた。いろいろあったし、若い頃は社長と二人して危ない目に遭ったこともある。今年からは会社のロゴも変わったし、外国の支社も増えるという。
それでも後部座席の夫妻は変わらずに仲よく暮らしていくのだろう。昔と同じように、奥様は強く可愛らしく、旦那様は陽気で頼もしい。奥様はいまだに自ら毎日の食事を作り、旦那様はそれを楽しみに帰ってくる。お屋敷のベテランハウスキーパーは、相変わらずお二人は、奥様に怒られた旦那様がクッションで殴られては仲直りするという『ケンカごっこ』をしていると笑っていた。
春らしくなってきた日差しが、車内にさしてきた。混み合う車列に混じって、ローゼスはいつも通りに慎重に、安全に運転する。もっとも、たいした距離ではない。三十年前と変わったことのひとつだ。ニューヨークの中心街から夫妻の住まいまでが、格段に近くなったのだった。
玄関先まで夫妻を送り届けたあと、日課に従って車をぴかぴかに磨き上げて車庫から出てきたローゼスは、社長秘書に声をかけられて、ちょっと驚いた。今日は会社の用はないものと思っていたからだ。その顔を見て、秘書は笑った。
「仕事で来たんじゃないんですよ」
「なんだ、そうですか」
そう言えば、いつものパリっとしたスーツではなく、ラフなコーデュロイを着ている。
「社長がご用だそうです。ローゼスさんもご一緒に」
連れだって屋敷のホールに入ると、去年から飼われているボストン・テリアが秘書氏に吠えついた。
「いつまでたっても馴れてくれないんだなあ」
ローゼスはわざと厳しい顔をして、小犬を手で制した。
「気が強くていけません。こら、ミセス、静かにしなさい。ミセス・イギー」
どうやらミセス・イギーは彼らをからかっているつもりらしい。しばらく周囲を駆け回っていたかと思うと、ダイニングの方へ走っていった。
「あちゃ! 私達もあっちに行くんですよ」
秘書氏はため息混じりに苦笑して、歩き出した。落ち着いた飴色に磨き上げられた廊下に、温かい陽が降り注いでいる。所々に飾られた絵や花の鮮やかな色が、住人の人柄を語っていた。
「劇は楽しまれたようでしたか?」
「ええ、お二人ともご機嫌でしたよ」
「仲がよろしくて、うらやましいですな。ご結婚されて何年でしょう?」
「五十年ほどとうかがってます。私はこの三十年ほどしか知りませんが、いつもお睦まじいですよ」
「重役秘書の中に、物好きなのがいましてね、アンケートをとったんですよ。私などまさか回答が揃うとは思わなかったんですが。それによると、女性重役・重役夫人が家庭問題で悩んだ時、実に九割が社長夫人に相談してるんですよ。男性重役・重役夫君は八割が社長に相談するそうです」
「それはそれは」
思わず笑った。なぜか誇らしい。秘書氏は照れくさそうに、
「実はうちの女房も相談したことがあるらしいんです。一緒にピクルスを作りながら聞いてもらったとか……おかげさまで、うまいピクルスの作り方も教わってきまして、以来我が家は手作りピクルスです」
話しているうちに、ダイニングルームが見えてきた。ミセス・イギーと奥様の亀が、ドアの脇に並んで行儀良く座っている。
「さて、私の任務は完了です」
秘書氏はそう言って、さっとドアを開いた。
「確かにお連れしましたよ」
「まあ、どうもありがとう」
ダイニングには、温かい匂いがあふれていた。大きなテーブル一杯の、きれいにセットされた花、グラス、食器、大ぶりな野菜や肉の見える色とりどりの料理、席についたハウスキーパー、庭師、執事、そしてエプロンをして微笑んでいる社長夫妻。
目を丸くしているローゼスに、エプロンの似合うスージーQ・ジョースターは笑いかけた。
「座って、座ってちょうだい、ローゼス。今日はみんなでごはんを食べましょうよ」
「二人で夕べから準備したんじゃ。今年の記念日は特別だから、みんなで祝おうってな。おまえさんにはすぐバレそうだから、苦労して隠してたんじゃぞ」
ジョセフ・ジョースターは自慢げにエプロンの胸を張った。
秘書氏に腕を引かれて椅子にかけなががら、ローゼスは運転手の帽子をとって、顔に当てた。三十年の月日のうちに、変わったことがもう一つある。
彼はひどく、涙もろくなっていた。
作品名:これからまた春が来る。 作家名:塚原