神田川ロマンス
彼女の弟は万事屋に泊まってくるそうで、山崎にとっては好都合である。もちろん顔には出さなかったが。
道中、寒さに身を縮めながら歩いていると、妙が楽しげに振り返った。
「なんだか懐かしいわ。父上と新ちゃんと一緒に、昔よくこの道を通ったんです」
「これも、その時の名残?」
彼女の希望で持った風呂桶をカタカタと揺らして笑ってみせれば、悪戯な眼差しを返され、一瞬目が奪われる。
「いいえ、これはただの私の夢ですよ。今日は山崎さんと一緒ですもの」
妙がことさら楽しそうに微笑んだ。その言葉の真意がわからず、首をひねる。
山崎が彼女の言いたいことを理解したのは、温かな湯に浸かり、さっぱりした後だった。
「あれ、お妙さん? もう出たんですか?」
暖簾をくぐった山崎は素っ頓狂な声を上げてしまった。
妙が手を擦り合わせながら、夕空を見上げていたのである。てっきり自分の方が先だと思っていた山崎は目を丸くした。
当然彼女は自分より時間が掛かるはずだと思いつつ、常よりも早めに出てきたのだ。それなのに妙はとっくに上がっていたようで、白い息を吐きながらにこりと笑った。
「遅いわ、山崎さん」
「ご、ごめん! これでも早くしたんだけど…そのっ」
慌てて小脇に抱えていたマフラーを妙の首に巻きつける。ぐるぐると回しながら焦った様子の山崎を見て、妙は肩を震わせた。
「嘘、冗談ですよ。私が早く上がっただけです」
「そうなの? 何でまた…」
「だって、待ってみたかったんですもの」
子供っぽく言って小首を傾げた少女に脱力する。触れた洗い髪は氷のように冷たい。
ぎゅっと腕を回して抱きしめた。
「だからって、こんな寒い日に風邪を引いてしまうでしょう?」
幼子を叱るような口調に、またしても妙がくすくすと笑う。
もう一度言い聞かせようとした山崎は、自分を仰ぎ見た少女の口元が綻んだ瞬間、固まってしまった。
続く言葉に一気に熱が上昇する。
「好きな人を待つ時間ですもの。何の苦にも感じません」
わかった上でのセリフならずるいと思う。山崎は嘆息すると、赤くなった顔を隠しながら、そっと手を差し出した。
「…肉まんでも買って帰りますか」
「ダッツも付けてくださいな」
弾んだ声と共に繋がれた手は、寒さに合わずあたたかい。