千百二十四球
引退試合が終わり他の連中が部室に引き上げる中、一人グラウンドに残って自分の定位置に着く。未だに緊張感が走るのは、ここでの二年半が充実していた証拠だった。
ライトから順に目をやり、セカンドで一度止める。自己流の精神統一の儀式にあいつの小さな頷きが加わったのはいつからだったか、もう思い出せない。
栄口は気付いていたのか、オレはいつまで覚えていられるのか。
一生、なんて簡単に誓えないぐらいには大人になってしまった、十七歳の夏。
最初に興味を持ったのは、同じ学年に自分以外にも校外で野球をやっている奴がいると聞いた中学一年の時。その珍しい名字を頼りにこっそり教室まで覗きに行った事は、気恥ずかしくて告げていない。いつ見かけても笑っていて、つい目で追ってしまうようになった頃から執着し始めていたんだと思う。
三年になり、外向的な性格の父親が学校の役員なんか引き受けてきたのを物好きだな、と心の中で揶揄していたのも束の間、食卓で、送迎の車中で、あの名前を耳にするようになった。興味のない素振りをしながら、その実野球談義よりも楽しみにしていたなんて知る由も無いだろう。徐々に栄口に関する情報が蓄積されて行き、オレは一人勝手にあいつの事を知った気になっていた。
シニアのチームで色々あった事もあり、自分の可能性を試そうと野球部が新設される高校を受験したいと親に申し出たのは引退直後。栄口との唯一の接点である父親に、硬式出身者があと一人でもいれば、と確信的に漏らすとその翌月にあいつの選択肢に西浦が含まれている事を知った。部屋に戻りガッツポーズを一つ。まだ決まってもいない春のオレ達の姿が頭の中で膨らみ、その日はなかなか寝付けなかった。
いつ声を掛けようか、西浦で一緒に甲子園を目指そうと約束を取り付けようかとタイミングを伺っている内に季節は冬へと移り変わり、あっと言う間に受験当日を迎えてしまう。願書を提出した時に栄口の姿を確認してはいたが、この目であの笑顔を確認するまでは落ち着けなかった。今思えば、他人の事ばかり心配していられる随分と余裕のある受験生だな。数ヶ月後に迎えるその日も、それぐらいの気概で臨みたいもんだ。
それに反して、隣の席の栄口は普段から白い肌を更に青白くさせていた。終始そわそわとし、休憩時間の度に席を立つからこっちまで気が気じゃなくなる。思わず大丈夫かよ、と声を掛けると、力無く、それでも何とか笑みを浮かべていた。辛いなら辛いって言え、と語気を強めると、うん、大丈夫……じゃないかも……ともう何度目かわからないトイレへと向かう。
もっとこう、シニアの頃の話とかこれからの話で盛り上がるはずだったのに。<br>
よろよろと歩くその細い背中を睨み付けながら、頼むから栄口とオレを合格させてください、と存在するかしないかもわからない神様に祈る事ぐらいしかオレにしてやれる事が無いのが、歯がゆかった。
「阿部?」
後ろから突然声を掛けられ、それが誰のものであるかを認識も出来ないぐらいに驚いて振り向くと呼び戻していた記憶よりも少し、ほんの少しだけ大人びた外見になった栄口が立っていた。
「んだよ……。ビックリさせんじゃねー」
「ごめんごめん。なかなか戻って来ないからどうしたのかと思って」
派手に汚れたユニフォームに身を包んだままの栄口が、じゃん、と背中に隠していたグラブを突き出す。
「最後だしさ、ちょっと投げない?」
おお、と戸惑いがちに返事をした途端、栄口が走り出す。
「あべー! どっちがいい?」
内野の定位置に付き二塁ベースを指さした栄口の高い声が、だだっ広いグラウンドに響いた。
「そこでいい!」
叫んでから、そこがいい、と呟き直す。この三年間で牽制球は投げ尽くしたつもりだった。今は、誰の残像の影にも入って欲しくない。
「いいよー!」
栄口が両手を振ったのを合図に、最後のキャッチボールが始まった。すっかり熱が冷めた体を再び温め、栄口からの返球に慣れ親しんだ鋭さを感じた頃、オレは勝負に出る。
ギリギリ届くか届かないかの位置に落ちるよう調節しながら投げると、ちょっと! 真面目にやってよ! と文句を言いながら栄口が徐々に前進してきた。三十、二十、あと十メートル。その表情が困惑へと変化し、ついに目の前まで来た栄口からボールが差し出される。
「もう育成してくれなくていいのに」
オレ、野球辞めるって言ったよね? と言い辛そうにしている姿に、ああ、そういう事かと納得する。
「責めてるつもりはねーよ」
「じゃあなんで」
「……わかんねーか?」
俯いたその頬に、気温の所為では無い赤みがさす。
勝てる。
緩くボールを掴んだままの手を上から握ると、栄口が息を呑んだ。そのまま力を込めれば、二人の間に落ちた白球が転がって行く。
「顔上げろよ」
それでも動かない旋毛を見つめていると、栄口、と無意識の内に名前を口にしていた。零た声色の甘さに、栄口がようやく反応する。
近過ぎる距離で栄口と視線を交わした。あの頃と同じようで全く違う要求をしようとした瞬間に、目の前のそれが上下に揺れる。
栄口には伝わっていた、その事実だけで胸がいっぱいだった。
でも今は言わなくちゃいけない。
言葉が足りない性格をいつまでも開き直っているようじゃ、三年前から全く成長してねーだろ?
「引退しても、卒業しても、野球が無くても構わねー。ここまで来るのに五年掛かってんだよ。もう今更引く気も起きねーよ。わかってんだろうけど、オレ諦め悪いからな。どんな手を使っても、絶対離さねーから」
言ってから、我ながら狂気染みた告白だなと苦笑した。同じ事を感じたらしい栄口が阿部、ちょっと怖いよ、と後退ろうとする。
「言ったろ? 離さねーって」
言葉とは反対に手の力を緩め、被せた手で撫でるように指を絡めた。栄口が紅潮した顔を再び俯かせ、またすぐに上げる。
「……逃げるわけないじゃん。オレだって、ずっと」
この手が欲しかった、と言うその目には、オレの高校生活を支えていた強さが込められていた。