鳥籠と銀河
青年と少女は互いに恋をしていたが、手をつなぐことも口づけをかわすことも、ましてや抱き合うこともなかった。それどころか、お互いの、ほんとうの名前すらも知らず、名を呼ばうこともなかったのだ。
彼らが恋の証としたのは、ありふれたことではなかった。青年は少女を鎖でつなぎ、籠の中に閉じ込めた。少女は自らその鎖に縛られて籠の中から逃げることを望まず、物語をつむぎ、金糸雀のように歌をうたった。ふたりはお互いの呼吸の音を聞いた。決して、互いにふれたりしなかった。ほんの、指先でさえも。
その日、青年は、はじめて少女に贈り物をした。かぐわしい薔薇の花束を抱えていた。赤い、血のような花束だった。
青年は、自分で不穏な気配を感じていた。彼は恋をおそれていた。おそれるあまりに、最後には恋人を放りだしてしまうのだった。衝動的に。青年は、このところ予感を感じていた。少女がここから飛び立ってしまうことを。いや、いつでも、自分が少女を手放してしまう予感を。
少女に花束を手渡して、そう囁いた。少女は小さく頷き、花の香りを嗅いだ。強すぎる香りに、酔うようにくらんだ。青年と少女をつなぐ鎖、そして、この棲まいたる籠に継ぐ、三つめの贈り物だった。
「いいにおい」
少女は微笑む。
青年と少女の恋は、いささか風変わりであったが、確かに恋であった。互いをあいしていた。ただ、あいしあってはいなかった。それは、天と地ほどの違いだった。
少女はうたをくちずさみながら、くるくると人形のように回った。少女は、よろこんでいた。心の底から、温かい気持ちがあふれるようで、少女は声を張り上げた。叫ばずにはおられなかった。
「あなたが、すき!」
少女ははじめて、そのことばを口にし、自覚した。わたしは、「恋」をしている! 物語の中の恋人たちのように。なんと、素敵なことだろう。少女は白い頬をすっかり薔薇色に染めて、くりかえす。
「すきよ!」
「うれしいよ、サカナちゃん」
青年は、微笑む。けれどその表情は、不安で曇っている。少女は自分の感情に夢中で気付かない。得てして恋とはそういうもの。美酒のごとく、酔ってしまう。過ちとも知らず。彼らのこころは交じらわずに、すれ違っている。恋とは、悲しいかな、そういうもの。恋情を、幸福のみのうちに、わかちあうことは、とても難しい。
少女は浮かれて、彼から受け取った花束から一本、無造作に抜き取って香りを嗅いで、はなびらのなめらかさを指に感じ、そして千切った。少女は、いくつもいくつもはなびらを千切っていった。あわれ、恋に落ちた者として。少女は青年のこころを占った。目の前にいる青年のこころを。
――すき、きらい、すき、きらい、すき………。
大きな薔薇の花束が、赤いはなびらの波になるまで。青年は、少女のはかない声をきき、こころの中で声を重ねる。
――すききらいすききらいすききらい……。
青年は青年なりに少女をあいしている。だが、不安は拭えない。占いの結果は、わかっている。ああ、しかしその結果は果たして正しいのだろうか。
少女ははなびらを数えながら恋の幸福の中にいたが、とうとう最後のはなびらがふわりと落ちたとき、彼の不安が少女のこころの一滴の染みを落とした。赤い沁みを。
不幸とは幸福の中に忍び寄ってくるもの。少女は、不安に陥る。流れ出した血のように、赤いはなびらの中で、おののく。恋という鎖から、愛情という籠から逃れなければならないことを。
「さあ、烏賊刺しサムの話の、つづきを」
青年はつぶやく終わりを、おそれているにもかかわらず。好奇心に勝てず、お話の結末を聞かずにはおられない。少女は、応える。少女が青年のためにできることは少ない。籠につながれること、歌うこと、そして、語ることだけ。少女の声は、震える。ほとんど確実に思われる、わかれの予感のために、少女の瞳には涙がにじむ。
「かがやく銀河に飛び立つため、サムは――」