愛を知りたくて
昇降口を出たら空が青くて思わず歩みを止めた。わずかに顔を上げてぽかんとただ立ち止まっていると、僕が突然固まったことに面食らったらしい声がすぐうしろから飛んできた。
「どうした」
十二センチ上から無愛想な声。入学から三年、僕の背はぐんぐん伸びて、でもそれ以上に手塚はすくすく大きくなって、結局三年目の身長差はずっと変わらないままだった。
「ううん。空がきれいだなって」
「……そうだな」
きっちり自分の目でたしかめてから、答えてくれる。そういうところは出会った頃からちっとも変わってない。手塚はいつも真実にだけ忠実で己の信念のためなら努力を惜しまない公正な人。僕が彼に抱くそんな印象も、一年の時からほとんど変わらなかった。ただ、目に見えない意地だとかがむしゃらさだとか、熱いこころを、すこしだけ知った。
「もう春だもんね」
ここ数日ですっかり風もあたたかい。僕たち三年はもう卒業式を終えていて、ほんとうは制服を着る必要だってないのかもしれないけど、三月いっぱいまではまだ中学生だ。だから、なんとなく最後のそれを味わっておきたいなぁなんて気持ちもあって、まだ学ランを着続けている。春休みでちょっと部活を覗きにきただけなんだけど、手塚はきっと僕がもちかけなくても制服で来るつもりだったかもしれない。そういう人間だ。律儀に職員室の先生方に挨拶に行ったら、肘をついていた先生まで背筋をのばして手塚を迎えた。単なる付き添いのつもりだった僕も手塚の影に隠れているのがなんとなく申し訳なくなって、一歩離れてぺこりと頭を下げた。
レギュラージャージは、もう何ヶ月か前に脱いだ。当然ながらジャージは個人の私物であって、着ようと思えば今だってすぐにクローゼットから取り出せる。でも僕たちはそれを着ない。時間が経つってそういうことなんだ。目に見えないふたしかなものを、僕たちはそうして知っていく。
「帰ろうか」
手塚が、何も言わずに僕のほうを見つめている気配がしたので、くすりと笑って声をかける。きっとどれだけ僕がここでのんびりしていたって、黙って傍にいてくれたんだろうと思う。でも僕はそれがいやだからちゃんとけじめをつける。いやだから、って言うと、ちょっと言葉がぴったりじゃない気がするけど……それ以上にどんな言葉を使うべきか、僕にはまだわからない。僕は手塚に黙って隣にいて欲しいわけじゃないんだ。それだけはわかっているんだけど。
歩き出した僕たちは、空を見たり、咲き始めたタンポポを見たり、気の早いチューリップのつぼみに笑ったりしながらすこしだけ会話をする。僕よりゆっくり足を踏み出す手塚が、ペースを合わせてくれているのだとわかるから僕はまたなんとも言えない気持ちになるんだけど、それはきっと手塚がしたくてやっていることだから何も言わない。なんでもない独り言にちゃんと答えて、たまにはすこし笑ってくれるのが見なくてもわかるから、僕はそれだけでじゅうぶんすぎるほど、しあわせだった。
バスに乗らずにゆっくりゆっくり歩いたのに、日が暮れる前に僕たちが別れる曲がり角まで着いてしまった。まだまだ太陽は高いところにいて、ほんとうに春だなあ、なんてぼんやり実感する。学ランを着た背中が、陽光を浴びてあたたかかった。
「じゃあ、」
「ああ」
明確な台詞は必要がなくて、僕らはそれを言うだけで別れられる。次に会えるのがいつかはわからない。今までと違うのはそれだけだ。きっと手塚もそのことを知っていたから、僕たちはふたり、なんとなくお互いから離れがたくて足を止めた。
「……身体に、気をつけてね」
「ああ。不二、おまえも」
「うん」
「青学を頼んだ」
「それ僕に言うこと?」
笑って首を傾げれば手塚は何も言わずにちいさく息を吐いた。手塚だってわかってる。他に言いようがないんだよね、きっと。僕が高校でもテニスを続けるって知って誰より喜んでくれたのは君だったもの。ありがとう、でも、ごめんね。ごめんね。いつも君が求めている僕でいられなくて。でもこれが僕なんだ。三年間、いつだって君の隣で、君を見てた。君の正面に立てる日を夢見ながら。
僕の本気を引き出してくれたのはいつだって君だったよ。それだけは、忘れないでね手塚。
「さよなら」
微笑んだまま、学生鞄だけを持って手持ち無沙汰な僕は後ろで手を組んだ。ラケットバッグを乗せない肩はやっぱり少しさびしい。けれどすぐに四月になって、僕たちはまた大きなそれを担ぎ出す。そこに君はいないけど、僕たちは、また、ラケットを握る。
「……不二?」
手塚の眉がぴくりと動いた。僕は得意の笑顔を浮かべたまま、その眼鏡の奥の瞳を見つめるしかない。なんて聡い人だろう。嘘や非常にとても敏感だ。
「さよなら、手塚。今までありがとう」
噛み締めるようにゆっくり呟く。手塚と過ごしたいろんな時間、手塚と見たいろんな景色、笑い合ったこと、泣いたこと、コートに立ったこと、ぜんぶ蘇ってきてちょっとだけ鼻の奥がツンとする。
「不二、」
「ずっと見てるからね。応援してる。だから……元気で」
がんばって、なんて僕が言うまでもないだろうから。それから、あとほんのちょっとでいいから自分の身体を大事にして欲しいなあ。ドイツに行ってまで、僕らに心配させないでね。
「不二、それはどういう意味だ」
「そのままの意味だよ。元気でね」
「不二、」
「手塚」
異変を察知する能力に長けた手塚は、いっしょうけんめい微笑んでいる僕の肩に触れようとした。僕はできるだけ自然なしぐさでそれを避けて、歩き出す体勢に入る。
「バイバイ」
背を向けて、まっすぐに歩き出した。不二、とまた呼び止める声が聴こえたけど、風が吹いて僕の髪を撫でていったので、それに気をとられて聴こえなかったことにする。乱れた髪の毛を耳にかけたら、また手塚が僕のことを呼んだ。さっきより、ほんとうにはっきり聴こえて、僕は振り返ることができなかった。いちばん最後に笑いながら見つめた手塚の顔は、僕を追いかけてきた雨の日のそれに近くて、手塚はどこまでも手塚だなあと思った。そんなところが好きだったんだけどね。
さよなら、大好きな手塚。僕の青春。
090322
BGM:つじあやの