クリーニングの代償
けれど本当にこの街が好きで留まっているのかと言われれば、そんなことはない。
マックのコーラを啜りながら、駅へと向かう学生やサラリーマンとすれ違う。夕暮れ時のこの街は、一方通行かと思わせる程に皆同じ方向へ歩いていく。
「紀田くん」
高速道路の下、人通りより車通りが勝つ唯一の場所。名を呼ばれ振り向いた先には、彼がいた。
「折原さん」
ストローから口を離すと、彼はひらひらと手を振った。
新宿を縄張りとする彼でも、時折池袋に現れる。その理由を知っていた。
彼が会いに行く男は俺なんかよりずっと長身で、大人だった。
「会う相手、間違ってるんじゃ?」
苦笑いをしてその場を立ち去ろうとすると、制服の襟元を後ろからぐいと掴まれて引っ張られた。どん、と電柱に叩きつけられる。
痛みによって手を滑り落ちようとするコーラのカップを慌てて握り直す。
彼の靴を少しでも汚そうものなら大事だ。
「つれないなあ。すごいことした仲じゃない。男は始めてだったでしょ?君、へたくそだったけどそれなりに楽しませてもらってたよ」
彼のその言葉にかっと顔が熱くなった。
感情の任せるままに、持っていたコーラを振り投げる。
「…あ」
しまった。と思った時には、跳ね返った液体が制服の上でしゅわしゅわと音を立てていて。
彼の瞳がおれの眼を貫く。それはもう、射抜くように。
この眼に捕まったら逃げられないと、経験的に知っていた。
彼の赤い舌がちろりと蛇のように口の周りを舐めまわす。
普通の人間なら背筋が凍るような光景でも、おれの身体は熱くなる。
が、と肩口に強い力を感じた。
思わず目を閉じ、状況を確認する前に唇に噛みつかれた。
彼の唇はコーラの味がした。
「はは。笑っちゃうね。まだ俺のこと好きなんだ」
唇が切れたことはもう確認せずともわかる。肩に痣が出来ていようことも確認せずともわかる。
唇が離されたと同時にため息を吐いた。くそ。繰り返しだ。また。
「クリーニング代、払ってよ」
こうやって、俺はまた断れない。
「今日は、どっちの気分ですか」
「そうだなあ。酷くしてもらおうかな。あいつは優しいからさ」
彼の言うあいつを想像し、あいつが優しいセックスだなんてと表情に出ないよう気を付けながら嘲笑する。
身体だけの関係だなんて、思い込みにすぎないことくらいいい加減に認めたらいいのに。
本当の身体だけの関係って言うのは、俺たちみたいな関係を言うんですよ、折原さん。
「ホテル代よろしく。ああ、クリーニング代もね」
「…だったらクリーニング代だけのが安いんじゃ」
そう言うと、誰に向かって言ってるの?というような視線を感じる。はいはい、と首を振って承諾すると、お礼にちゃんとセックスの間名前呼んであげるから、と返された。
「あれ、ホテル池袋でいいの?」
全てを知っているような顔で、彼はおれの顔を覗きこむ。
新宿まで、電車で10分。けれど大違いなのだ。新宿と池袋では。
「…知れたら、命、ないかもよ」
彼は、全てを知っている。
あいつの気持ちも、俺の気持ちも、全部知っている。
いつになったら彼の眼から逃れられるのだろう。
いつでも引っ越せるのに、彼を避けることだってできるのに、俺にはそれができないんだ。
この窮屈な束縛感の先にある甘い果実を齧ってしまった後だから。