回転木馬
窓を開けたまま外を見ていると、部屋の中で荷造りをしていた兵助が寒い、と訴えたので悪い、と一言添えて中へ入った。床にべったり座って荷物の品定めをしている兵助の横を通り過ぎようとすると、素早く左手を掴まれた。反射的にその場に立ち止まる。
「冷たっ」
そう文句を言いつつも兵助は俺の手を小さく擦って離そうとしない。仕方ないな、と手を自由に弄らせたままその場に胡坐をかくと、兵助が何か訴えるようにこちらを見た。
「メリーゴーランド。乗りたい」
世間体を気にし、目立つことが嫌いな兵助からまさかそんな言葉が出てくるなんてと驚きを隠せずにいると、兵助の目が何か言えよと訴えるように細められる。
「あ、どこ行く?としまえん?」
慌てて思い浮かんだ遊園地の名前を口に出すと、兵助が俺の手を離した。何事もなかったかのように兵助は荷造りを再開する。荷物の3倍はゴミがある。それなのに、俺がお前は寒がりだからと兵助にあげた趣味の悪い派手なエスニック柄のガウンとか、貸したままいつのまにか兵助のものになったマグカップとか、そういうものが兵助の荷物の方に分類されているのを見て嬉しく思うのは仕方のないことだろう。
「スティングの。ヘンリーが直してた、あれ」
アメリカのどっかにある筈なんだ、と兵助は続けた。
「最期の思い出に?」
ほぼ無意識に発した言葉に、兵助の手が止まる。しまったと思いつつも、これからの俺たちの関係をはっきりさせておくのにちょうどいい機会だとも思った。
兵助は来週からカナダに行く。ちょっと英語の勉強をするだけで留学とかじゃないと言っているけれど、兵助のことだからきっと戻ってくるつもりはないのだろうとも思う。向こうの生活が気に入って、向こうに住みつく程の図太さと覚えの良さを兵助は持っている。
雪のせいだろうか。兵助が暮らしていた兵助の部屋は、荷物で散らかっているのにひどく寂しく、BGM代わりにテレビが点けっぱなしになっているのに恐ろしいほど静かだった。
「俺はヘンリーほど偏屈じゃないし、詐欺師でもない」
兵助は手に持ったままだった文庫本を置いた。ごみに分類されたそれは青い背表紙をしていて、兵助には珍しい、海外の現代的な推理小説だった。
兵助が横目でこちらを見る。その表情から読み取れる感情は、驚くほど雪景色と一体化していて、思わず目を逸らしてしまった。
「はちが思ってるよりわがままで、はちが思ってるよりちゃんとはちのこと考えてるよ」
下を向いたまま目を見開く。まるで、初めて聞く告白の言葉のようだった。想いが叶ったときよりも切なく、苦しい感情を伴っているけれど。
喜べばいいのか悲しめばいいのか、今顔を上げても拗ねた子供のような顔しかできないことくらいわかっていたから、ぐっと言葉を飲み込んだ。『ありがとう』と言いかけた唇をきつく結んだ。
肩に重みを感じる。それが何であるかなんて見なくてもわかる。それがわからないほど、浅く、軽率で、不真面目で、その場限りな付き合いをしてきた覚えはない。最初から最後まで真剣だった。自分自身への愛情すら、こいつに注いできたのだから。
側に来た兵助の頭を抱えるように腕を回し、ゆっくり撫でる。限られた時間を伸ばそうともがく様はなんと醜いことだろうかと思ったが、兵助はそうは思っていないことが肩から伝わる体温から理解できる。
「何年、何カ月なら待てる?」
兵助が小さく呟いた言葉は、雪が雪に呑みこまれていくようにか細く響いたけれど、テレビの音が聞こえなくなるくらい、俺の耳は兵助の声だけを拾った。
撫でていた頭を強く自分の胸に押し付け、目の前に現れた黒髪に必死に唇を押しあてた。
終わりだと思っていた自分を戒めたい気持ちでいっぱいだった。
兵助は俺が思っているより先を見つめていたし、俺が兵助を理解している以上に兵助は俺のことを理解していた。
「何年でも待てる。何年でも」
そう告げると、兵助が勢いよく俺の胸に手を付いて離れていく。兵助と目が合った。
「それじゃ、おれ何年も帰ってこられない」
拗ねた子供のような顔をしているのは俺じゃなく兵助だった。その表情に、一気に緊張が解け、全ての筋肉が弛緩する。背中に手を回して力を込め、兵助を腕の中に戻した。
「1年。 それ以上は寂しい」
素直にそう言うと、兵助は腕の中で嬉しそうに笑った。けたけたと笑う兵助は今まで見た中で一番幼く、素直で、自分は今まで兵助の何を見ていたのだろうとつい苦笑いを洩らしてしまう。
ふと、窓の外を見ると、雪はまだまだ降り続いていた。
思いだした。俺は、雪が好きだった。
「行こうか。アメリカ」
兵助が途端に固まりだす。
普段冗談に聞こえることもあるけれど、兵助はいつも素直だったのだと気付いたから。理由もなくメリーゴーランドに乗りたいだなんて言い出す男じゃないと知ってはいたけれど、ようやくそれを本当の意味で知ったから。
「乗りたいんだろ。俺も乗りたいよ。お前と二人で」
兵助は動かなかった。きっと少し恥ずかしいのだろうと思う。笑ってやると、笑うなと顔を見せぬまま兵助が文句を吐く。
「兵助、少し散歩しよう。せっかくこんなに雪降ってるし」
兵助を腕の中から解放し、手を掴んで立ち上がる。兵助は突然のことに唖然としていたが、仕方ないな、と言ってにこりと笑った。
実際に降り立った雪は思った通りふかふかで、静かで、ジーンズの裾に纏わりついた。後ろを振り向くと、二人分の足跡が家から続いている。
帰りは違う道から帰ろう。二人の足跡が後ろに戻ることのないように。