リズム・コミュニケーション
シングルベッドに腰かけた状態から、思い切り腕を振り回してベッドにどすんと横になる。ネクタイを緩めると、激しい疲労感が圧し掛かってくる。シャワーでも浴びようか。そして早々に寝てしまおうか。明日も会議だ。
ビジネスホテルのシングルルームは非常に狭い。仕事が終わったというのに全く解放感のない部屋にうんざりしながら、壁に視線を送る。
壁の向こうには愛しい恋人。社内恋愛という都合上、上司には関係は告げてない。告げていたとしたら尚更、同室になんてしてくれなかっただろうけど。部屋を取ってやったという上司の笑顔にちょっとだけ期待した。二人部屋でも取ってくれているんじゃないかって。そんな夢、顕微鏡のカバーガラスよりも脆く早々に崩れ去ったけど。
もうすでに兵助に会いたい。夕食は一緒にとった。安く、一人客の目立つ古びた定食屋で。兵助は勝手にサバの味噌煮定食を二つ頼んだ。俺は違うのがよかったのに、たまには魚食え、お前にはカルシウムが足りないんだとか言って。
なんとなく携帯を見た。正直俺は寂しい。ふたりで出張なんて滅多にない機会だし、俺は相当浮かれてた。兵助もそう思って電話でもしてくれるんじゃないかと思った。しかし携帯はメールも電話も受信する気配がない。アンテナを確認したり、センターに問い合わせしてみる俺は相当女々しいとの自覚はある。ドアの近くに立って、隣の部屋のドアが開く気配があるかどうか数分かけて確認もした。ドアに耳を当てたりドアの下の隙間に影が落ちるのを待ったり、覗き穴は数分間に数えきれないくらい覗いた。それでも、そんな気配なんてない。わかってたよ、わかってた。
手のひらをドアに押し当てる。ひんやり、とまではいかないが、ドアには体温なんてなかった。当たり前だけど。体温が恋しい。この部屋には自分以外誰もいないんだし、オーバーリアクションは許してほしい。言葉通り、頭が落ちるんじゃないかってくらい激しく頭をがっくりと下げた。
今日はもう諦めて、シャワーを浴びて寝てしまおう。兵助は元々一人じゃ生きていけないようなタイプじゃない。俺みたいに、恋愛に夢中になるタイプにも見えない。きっと明日も仕事があるし、しっかり仕事と恋愛の区別をつけたいと思ってるだろうし、もう寝ているかもしれない。ベッドへ戻って、スーツのジャケットや靴下を脱いで放り投げる。ハンガーに掛けるのは、風呂から出てからでもいいだろう。
緩めてあったネクタイを片手で取り去った瞬間。壁がトントンと鳴った。
思いもかけない状況に、壁を見たまま固まってしまう。ベッドの上にうまく乗り損ねたネクタイが、しゅるりと音を立てて床へと落下した。ぼうっとしていると、再び壁が叩かれる。トントントントントントン。明らかに先ほどより苛立ってる。
とりあえずトントン、と2回だけ返してみた。ゆっくり、確実に聞こえるように。すると僅かな間を置いて、2回トントン、とノックが返ってくる。トントントン。次は3回。返ってきたのも、やはり3回。
次は「会いたい」の意を込めて、今までよりゆっくり丁寧に大きく壁を叩いた。トン、トン、トン、トン。また4回返してくれるものだと思ってた。しかしいつになっても壁は静かなまま。え、終わり?焦って壁に耳を付けてみる。物音ひとつしない部屋に不安が募る。え、寝た?ただの暇つぶし?もう一度だけ2回、トントン、と叩いてみる。すると予想外の方向からトントン、というノックが聞こえる。
壁へのノックは音が鈍い。しかし今聞こえたノックは鋭く、そして明確に部屋中に響く。
返事が返ってこなかったのは、兵助が部屋を出ていたからだったのだと気付く。そうだよな、俺ばっか寂しい思いしててたまるか。せっかく向こうから出向いてくれたのだから、今夜はめいっぱい可愛がってあげないと。それが礼儀ってものだろう。
綻ぶ顔を隠せぬままに、急く気持ちを抑えながら体温のないドアノブを回した。次に触れるものには体温があるということを、ひどく愛おしく思いながら。
作品名:リズム・コミュニケーション 作家名:ニック