椿
そういって仙蔵は下品な薔薇の香りを漂わせて出て行った。
「あれ、文次郎、今日仙蔵は?」
「そっちこそ食満はどうした」
「部屋で寝てる」
俺達は暇さえあればこの薄暗いバーに集う。静かな店で、客はほとんどが常連客、というか俺達。Jazzのセンスがいい店があると仙蔵が見つけてきた店だ。ジャズに興味がなかった俺や食満も、大きなスクリーンに映る西部劇を気に入って入り浸っている。もっとも、ジャズがかき消されないよう映画はミュート設定されているし、流れるのは毎日同じ映画なのだが。伊作と食満はファミリーこそ違うが俺や仙蔵と年齢も同じで裏の世界の同期で、いまだにその腐れ縁は続いている。
「で、仙蔵は仕事?」
「ああ」
頬杖をついてグラスを回し、カラカラとグラスの中で回転する氷を見つめる。もう何杯目かなんて覚えていないが、少し頭がぼんやりしていることは自覚している。隣で伊作がジントニックを注文する。こいつはやたら透明で炭酸の入ったカクテルを好む。というか、ジントニックとモスコミュール以外飲んでいるのを見たことがないかもしれない。昔、まだ俺達が裏の世界に入って間もない頃の話だが、伊作がラムコークを飲んでトイレに直行したことは覚えている。炭酸でも色が付いたものはだめなようだ。変なやつ。
「文次郎がウイスキーをショットで飲んでるってことは、仙蔵は例の仕事かな」
左手で器用にライムを絞り、右手でカランとマドラーを2周回しながら伊作がこちらの顔色を窺う。こいつは全く勘がいいというか鋭いというか、いや、人間観察が得意なのだろう。俺は肯定も否定もすることなく、注ぎ足されたバーボンをぐいっと一気に飲み干した。喉がじんわり熱を持つ。いつまでたってもこの洋酒の酒らしさというか、鼻に来るかんじには慣れない。思わず苦々しく眉を顰めてしまう。熱を持った頭の片隅で、伊作が慣れないもの飲むからだよ、すいません水くださいという声が聞こえた。
例の仕事というのは、情報屋から情報を買う仕事のことだ。といっても金目のものを取引に使うのでは、いろいろと手間がかかる。お互いの要求が一致する、もしくはどちらかが妥協するまで取引は先に進まない。大きな代償を払って得た情報がガセだったり古い情報であることも珍しくはない。そこで消耗品でない代償として選ばれたのが、人間の身体。今頃仙蔵は誰かの腕の中にいるのだろう。
「ちょっと文次郎、右に傾いてるよ。そこだけ地球の自転速度が違うわけ?」
どうやら飲みすぎたようだ。確かに視界が傾いている。スクリーンを見ると、丁度一番好きなシーンだった。馬が斜面を駆け降り、カウボーイは自分が相当な速さで動いているにも関わらず正確に相手をどんどん狙い撃っていく。ああ、そうだ、次のシーン。馬が後ろ脚を撃たれて、馬が傾いて…
「うわっ、文次郎!」
意識が途切れた。
仙蔵とは二度だけ身体を重ねたことがある。一回目はまだ仙蔵に情報買いの仕事が与えられていなかった頃。きっかけなんてものはなく、たまたま俺達が一緒にいて、たまたまお互いが欲求不満だっただけの話。しかしそれから俺達の関係は変わったように思う。いままでただの同期だった男が、相棒になったとでも言おうか。冗談を言い合うようになった。仙蔵はわがままを言うようになった。俺達は、空気で会話するようになった。
二回目は、外だった。綺麗な椿が咲いていた。仙蔵に初めて情報買いの仕事が与えられた時だ。椿に囲まれながら、明日情報を買いにいくと仙蔵は言った。あのときの行為についてはあまり覚えていない。初めて重なったときの淫らな姿を思い出し、その姿をほかの男に見せるのかと考えただけで頭に血がのぼってしまった。ただ、仙蔵の白い肌に椿の赤い色がよく映えていたことははっきり覚えている。「馬鹿な男と優しい男は使いようだろう?」と強く気高く笑って見せた仙蔵を綺麗だと思った。あいつには椿がよく似合う。
バコッ
と、思い出に耽っていると顔面に衝撃が走った。鼻が痛い。うわ、頭も痛ぇ。ていうか胃がおかしい。なんだこりゃ。とにかく体中が痛くてだるくてかなわねぇ。
「いつまで寝ているつもりだ馬鹿者」
「え、仙蔵?」
正気に戻ると目の前には仙蔵がいた。俺は知らぬ間に自分のベッドで寝ていた。朝日が眩しい。仙蔵の手には護身用の拳銃が握られていて、どうやらこれで俺の顔面を殴ったらしい。一発で起きなかったら撃たれていたんじゃないかと冷や汗が伝った。こいつならやりかねない。
「伊作が運んでくれたそうだ。バーボン飲みあさって椅子から転げ落ちたそうじゃないか。朝私が自室に戻ると伊作から留守電が入っていてな。」
伊作から薬を預かったと言って仙蔵はミネラルウォーターと白い粒の入った小さい赤茶色の瓶を放り投げた。ミネラルウォーターはまだ周りに水滴をつけ、ひんやりと冷たく気持ちよかった。
「お前の世話を私に任せる伊作も伊作だが、私に迷惑かけるとはいい度胸じゃないか文次郎」
うるせぇよ、と反発してみるものの俺の立場の方が弱いのは明らかだ。ああ情けないなと思いながら薬を飲もうとミネラルウォーターに手をかけると、ベッドに腰掛けてきた仙蔵に薬の瓶共々やんわりと奪い去られた。
「嫉妬でヤケ酒とは可愛いものだな」
考える暇もないうちに仙蔵の右手が俺の顎を固定し、顔が近づく。気が付いたときには仙蔵の口から生温い液体と少しざらついた物質が二粒、俺の口内に注ぎ込まれていた。生温かった液体も仙蔵の口と俺の口を渡り歩いたことですぐに熱を持った。薬を飲み終えてしばらくし、ようやく解放される。仙蔵はおもしろそうに笑っていた。いたずらが成功した時の子供のような笑顔だったが、気高く上品だった。あのときの椿の花のように綺麗だと感じた。
「仙蔵、お前はどうやっても汚れないんだな」
そう言ってやると仙蔵はわけがわからないという顔をした。何か言いたそうな口を、今度は俺が塞ぐ。仙蔵からは昨日の名残か、かすかに薔薇の香りがしたが、不快な気はしなかった。
次に伊作と会ったとき、一体何を言われるだろう。せめてジントニックをおごるくらいはしてやろうか。