二回四失点
野球部員としてあのグラウンドで白球を追うのも狭苦しい部室で着替えるのも、これで終わりかもしれないと思ったら色々こみ上げてきそうだからみんな考えないようにしているんだろう。
田島と花井の攻防のとばっちりをかわしながら、周囲を見渡してみてふと気付く。
そこにいるはずのその姿が、無い事に。
「阿部だ」
確か次の授業が移動教室だったんだと思う。何人かのクラスメートと廊下を歩いていたら、隣の奴が聞き慣れない名前を口にした。
「誰?」
「阿部。小学校の時クラス一緒だった奴。あいつもシニアで野球やってんだよ」
軽く顎で示された先にいた黒い短髪は初めて見る顔で、第一印象は何か不機嫌そうな奴だな、だった。
へー、どこのチームだろう。うちのブロックじゃないよな。見た事ないもんな。
同じ境遇と言うだけで今さっき存在を知った同級生に親近感を抱き、野球は上手いのか、どんな奴なのかと次々に質問を浴びせてみたものの、テニス専門の友人からはポジションはキャッチャー、悪い奴じゃないけどあまり愛想が良くないという以外の情報は得られなかった。
それ以来時々擦れ違う阿部を注意して見ていると、単独行動が多い訳では無いのに一緒にいる人間とふざけ合っている様子も無く、賑やかな輪の中から自主的に少し距離を置いているようだった。その所為か、話しかけようと思えば機会はいつだってあったのにどこか近寄り難く、目が合った? と思った次の瞬間に視線を思い切り外されるという事も何度かあって、躊躇している内にタイミングを逃してついには自分から積極的に動くのを止めてしまった。
ま、いいか。二年になったら一緒のクラスになるかもしれないし、その前に何かしら話す機会があるかもしれない。
楽観的に考えていたその時が訪れたのは、それから二年以上先になる。
入学直前の春休みは基本的に二人きり。
バイトが休みの日はモモカンが手伝いに来てくれたり仕事の合間にシガポが差し入れを持ってきてくれたりしたけど、それ以外は日中のほとんどを阿部と過ごした。と言ってもマウンドを起点に南北に分かれて草を毟っていったから、会話は休憩の間と行き帰りの道すがらだけ。元々阿部は口数の多い方では無く、話で聞いた通りの奴だなあと思ったぐらいでまさかこんな気持ちを抱くなんてあの頃は微塵も思わなかった。
自分で言うのもなんだけど、オレは女の子が好きだ。
彼女がいなくてもその手の話には人並みに興味があったし、むしろ率先して加わる方だった。
そんなオレが、いつからかそういう雰囲気になると話題を逸らすようになり、眠れないぐらい焦がれても誰にも相談出来ない想いに押し潰されそうな日々を送るようになる。
父子家庭である事、部活に入らず校外で野球を続けてきた事。マイノリティである事には慣れている。興味本位で根掘り葉掘り聞かれたり陰で話題にされている事も知っていたけど、だからと言って別に非難される覚えは無いと上手くかわしてきた。そういうスキルには自信もあった。
ただ、今回ばかりは勝手が違う。
好奇の目に晒されるばかりか相手にも迷惑が掛かるだろう。何より嫌悪感を抱かれる可能性が圧倒的に高い。絶対に、知られる訳にはいかない。<br>
それなのに阿部は、わざとやってるのかと問いたくなるぐらい明らかに他のチームメイトとは違う距離感で接してきた。オレの事を知りたがり、束縛とも言えるような言動で日常に介入しようとする。最初は真意が読めず鬱陶しさを覚えていたそれも、慣れてくれば心地良くなり、その後依存するようになった。
恋へと発展するのは必然だった。
きっとシニア出身で中学も一緒、副主将としてチームを纏める為に共にサポートしてきた中で、あまり他人となれ合わない阿部なりに信頼の意を表してくれているんだと思うのが普通なんだろう。
そうとわかっていながらも針の先で突いたほどの期待が捨てきれず、諦めようとする度に挫折する羽目になった。
「全部、阿部の所為だよな」
群から逸れた仲間を探すように、一人元来た道を戻りながら呟いてみる。八つ当たりだという自覚はあったけど、誰かに責任を押し付けないともう抱えきれないぐらいに気持ちは膨らんでいた。
それでもやっと、解放される。
部活を引退してしまえばクラスの違う阿部との接点は無いに等しい。毎日顔を合わせる事も無くなり、その内この気持ちだって薄れるだろう。そうじゃなきゃ困る。
角を曲がると、フェンスの向こうの広いグラウンドで佇んでいる人物が視界に入った。 そこがキャッチャーボックスである事は明白だ。
三つの部で譲り合って使い、散々窮屈な思いをしてきたというのに今日に限って誰もいないんだな。あんな所で阿部は一人、何をしているんだろう。
何を思っているんだろう。
側道を歩くオレには全く気付かず、阿部はただ立ち尽くしていた。普段のふてぶてしさからは想像も出来ないぐらい感受性の強い奴の事だから、自分で作ったと言っても過言では無い場所へ感傷に浸りながら別れでも告げているのかもしれない。
オレ、邪魔になるかな。
立ち止まり、ゆっくりとグラウンドを見渡している阿部の背中を見つめる。試合の時はあんなに頼もしかった視線も、向かい合っていなければ貰えない。
あの感覚は、もう味わえない。
急に気持ちが弱ってきて、静かに二三歩後退る。一緒に作業をしたとは言え、どこか遊び半分だったオレとは違って阿部の野球部に対する情熱は最初からまっすぐだったよな。そんな人間に対して、何でオレは。
最後の最後にみんなに羽交い締めにされ、田島にマジックで書かれたばかりの不格好な背番号『2』を目に焼き付ける。
……これは良いチャンスかもしれない。始まりの場所で、阿部を前にして、今度こそ。
再び歩みを進め少しずつ近くなる阿部の後ろ姿に怯みそうになりながら、二人で過ごす時間なんてもう無いかもしれないと自分を奮い立たせ、気持ちを断ち切る為の決意をする。
ついにあと五歩という所まで来て、一つ深呼吸をした。
今までありがとう。十年ぐらい野球やってきた中で、一番楽しいチームだったよ。お前と同じチームで本当に良かった。オレはこれでやめるけど、その分応援するから大学行っても頑張れ。
オレ、阿部の事、好きだったよ。
一度も告げる事が無かった慕情をいつか懐かしめる日が来ることを願って、もう一度大きく息を吸い込んだ。