黄金の月
だいぶ日が延びたとは言え、十九時を過ぎればさすがに辺りも暗くなる。
練習後は大抵コンビニで栄養補給をしつつ部内の交流を深め、それぞれ帰路についていた。
今日だって、そのはずだった。
三橋と別れ、二人きりになったところで阿部から少し時間あるか、と寄り道に誘われる。
お互いシニアで野球をやっていて同じ中学に通っていたにも関わらず、余程縁が無かったのかチームも違えばクラスすら一緒にはならなかったが、入試の日に初めて会話を交わし、春休みは二人でひたすらグラウンド整備、硬式野球部がチームとして機能し出してからは副主将として会話も更に増えた。
ぶっきらぼうな所もあるが悪い奴じゃないし、癪だから阿部には言わないけど、野球談義をしながら毎日一緒に帰るのは最近一番の楽しみだった。
だけど、こんな風に阿部から声を掛けてくるのは初めてで戸惑ってしまう。
「平気だけど……。どうした? 何かあった?」
相談事でもあるのかもしれない、この間のシニアの頃の話の続きだったらどうしようと心配になってきてそれとなく伺ってみたものの、別に、と素っ気ない返事しか返って来なかった。
阿部の真意が図れないまま後ろを付いて行くと、土手沿いの遊歩道から川岸に降りる道が見えた。
整備がされていない砂利道を下り、邪魔にならなさそうな所に自転車を停めてから川辺に腰を下ろした阿部に習って隣に座る。
ん、とエナメルバッグをゴソゴソ漁っていた阿部から、スポーツ飲料のペットボトルを手渡された。
「え? もらっていいの?」
「おー。誕生日プレゼント」
呟くように言い、阿部は自分の分の蓋を開けて一気に三分の一ぐらいを飲む。
オレの誕生日を祝う為にわざわざ声を掛けてくれたのを悩み相談だと思いこんでいた自分に呆れて、笑いを堪えながら礼を言うのが精一杯だった。
「……これだけ冷えてたって事は、さっきのコンビニで買ってくれた?」
飲み物が空になってしばらく経っても、阿部は川面を見つめながら黙ったままだった。
沈黙は苦手ではないが、せっかく阿部が作ってくれた時間を無駄にしてしまっているようで、会話のきっかけを探ってみる。
「あー」
「突発的に思い付いたの?」
「……」
「みんなで歌ってくれたので充分だったのに、ありがとな」
練習後、部員全員で祝ってくれた時を合わせて三度目になる礼を述べると、急に阿部がこちらを向いた。
「……何をやればいいかわかんなかったから」
そう言って、不機嫌そうに視線を逸らす。
長い付き合いでは無くても、照れ臭さ故の表情だろうという事は理解ができた。
今なら、今のこの空気なら、あの日から抱いているモヤモヤした気持ちを伝えてしまっても大丈夫だろうか。
一つ大きく深呼吸をしてから、じゃあさ、と阿部を見つめる。
「……時間が掛かってもいいから、シニアの嫌な思い出は忘れちゃってよ。そんで、このチームで楽しく野球やろうよ」
阿部の原動力なのかもしれないけどさ、と続けると、睨むように視線を返してきた。
「立ち入った事を言ってごめん。余計なお世話だって事はわかってるんだけど、チームメイトが過去に縛られているのは面白くなくて」
そこまで言い切ってから、やっぱり言うべきでは無かったと後悔する。
もう阿部の表情を伺う余裕もなくなり、アクエリ貰っておいてなんだけど、と笑って誤魔化して立ち上がろうとすると腕を引かれた。
「……わかった」
いつもより堅い阿部の声が至近距離で聞こえた事に驚いて、思わず顔を向けた途端に柔らかくて、少し冷たい感触を唇に感じる。
何をされているのかぐらいは、オレにだってわかる。
だけど、どうしていいかわからなかった。
上手く呼吸が出来なくなる程の長い間だったのかもしれないし、抵抗をする隙さえないほんの僅かな時間だったのかもしれない。
視界からゆっくりと阿部が遠ざかり、痺れていた脳が少しずつ動き出したが、オレを見つめたままの阿部から逃げ出せなくて思考が上手く纏まらない。
「……なん……で?」
やっとのことで口に出せた言葉は、何とも情けないものだった。
何するんだよとか、ふざけんなとか、言うべき事は他にもっとあるんじゃないのか。
「好きだから」
お前はチームメイトとしか思ってなくても、オレはお前が好きだから、と阿部は念を押すように二度言った。
「今日は、それを言おうと思ってた」
何かの呪文にでも掛かってしまったかのように動けないでいるオレとは対照的に、妙にすっきりした表情になった阿部は帰るか、と立ち上がる。
腕を掴まれたまま引っ張り上げられ、よろめいたオレを見てなっさけねーなー、と笑った。
二人きりになってから、初めて見せた笑顔だった。
二の腕を掴んでいた阿部の手が滑るように移動してオレの手を握り、そのまま歩き出す。
「……手、冷たい」
されるがままになっていた事実にだんだん腹が立ってきてふてくされたように呟けば、ウッセー、嫌ならふりほどけ、と振り向きもせずに言い放たれる。
本当にふりほどいたら傷つくかな、と思ったのに、何故かオレには出来そうにもなかった。
それどころか、この状況を好ましく思っている自分がいる事に気付いてしまう。
あの投手に囚われたままの阿部が、すぐにオレ達だけを見てくれるとは思えない。
だけど、阿部は了承してくれた。今はそれで充分だった。
随分ゆっくりと歩いてから、自転車の前で立ち止まる。
どちらからともなく手を離すと、月明かりさえ届かない暗闇の中で再び唇を合わせた。
約束を、確認するように。