遠い思い出
とくとくと小気味良い音を響かせて、とろみのある透明な液体が注がれるのを、菊丸はただ静かに見ていた。
開け放たれた窓から僅かにそよぐ風に乗って、アルコールの独特の匂いがツンと鼻腔を刺激して、それに思わず顔を顰めたのを、目の前に鎮座する男は見逃さなかったようだ。彼はすかさずこちらを覗きこむように身体を傾け、その眼に心配という名のいろをのせて菊丸に問うた。
「大丈夫っスか、先輩。もう止めときます?」
観察眼は鋭いのに、洞察力はそれに比べて劣るのも相変わらず昔のままだ。否、ただ他人の感情の機微に疎いだけかもしれない。
決して酔いからではないそれに呆れをのせて、菊丸は静かに溜息を一つ零した。そうしてぐい、と杯を呷り、喉が焼ける心地よい感覚を味わう。
たった一口で空になった杯をずい、と目の前の男に差出し、言外に注げ、と命令する。言われた男は苦笑を湛えながらも従順だった。
そっと静かに注がれ満たされた杯には人口の光源がチラつき、ゆらゆらと煌めいている。
不思議なものだと思う。まさかあの頃の縁が未だに続いており、こうして彼と酒を酌み交わすまでに至っているとは、あの頃の自分は露程も思っていなかった。寧ろ自分の未来に、傍らに、この男が共に在るという事など想像すらしていなかった。
今では手放し難いこの糸を、あの時必死になって掴み、手繰り寄せてくれた彼に感謝する。そしてそれを切らなかった己自身にも賞賛を与えたい。
くつりと何処か意地の悪い笑みを浮かべながら、菊丸は先程と同じ様にぐい、と酒を呷った。
それから徐に男の胸倉を掴むと、その勢いのまま男に口付ける。そうして驚き、もがく男を面白いとばかりに追い詰めた。
暫くすると観念したのか、大人しくなった男の口端から零れる液体を勿体無いとばかりに舐め上げて、序でに嚥下する為に上下する、無防備に晒された喉にやわく噛み付く。ひくりと小さく震えた身体に、酷い満足感を覚えた。
「……何、するんですか」
焦りと戸惑い、そして若干の怒りを滲ませたその声に、菊丸は漸くどこか飛んでいた意識を現実へと戻し、やんわりと笑みを返す。
「先輩が突拍子もない事を仕出かすのは知ってましたが、急にこういう事するのは心臓に悪いんで止めて下さい。ああもう、本当に吃驚しましたよ」
「偶にはいいだろ?」
「悪くは無いですがもう好い加減それなりにイイ歳なんで、極力心臓に負担掛ける様な事はしたくないっスね」
どんだけだと呆れかえった顔を隠す事なく男に向けると、彼はそれには気付いているのかいないのか、喉が焼けると一言ぼやいただけだった。
「そりゃ、口移しで酒呑ませたからね」
「…そんな事する意味があったんですか」
「いや、単なる気分」
「気分て…」
ぐったりとうなだれる男を、優越に浸りながら見やる。
それは実にひん曲った悪癖の様なものだが、これはこの男と付き合ってから出てきたものだ。原因も責任も自分ではなく男にあると菊丸はそう思っているし、その主張を代えるつもりは全く無い。
「折角だから、このまま流れようか」
告げた瞬間、男の息が一瞬詰まるのを目敏く見付けて、菊丸は妖艶に微笑んだ。
そうして見下ろす体勢のまま体重を掛けて圧し掛かる菊丸に、けれど拒絶の手は差し伸べられなかった。
end.