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【幽静】night call.【新刊サンプル】

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結局、幽は強引にタクシーを呼ぶと海へと走らせた。こんな深夜に男二人が連れ立って海に行くためにタクシーを呼ぶなどと、運転手にはきっと色々と思われているのだろう。もしかしたら幽のことに気づいているかもしれない。
 そう思って静雄は車内でどことなく居心地の悪さを感じてはいたが、余計な口を利くような運転手ではなかったのでそれ以上何が起こることもなかった。
 程なくしてタクシーは目的の場所に辿り着き、先に車を降りた静雄はようやく息がつけるとその場で大きく伸びをする。
 タクシー代が案の定なことになっていたが、半分払うと言った静雄を押し切って自分が誘ったのだからと幽が全額持ってしまい、どう言った形で返そうか身体を動かしながらも静雄は暫く頭を悩ませていた。
 支払いを済ませて後を追ってきた幽は、思う存分身体を伸ばしている静雄の背中を見て僅かに目を眇める。
「行こう、兄さん」
 それでもいつまでもその場にいても仕方が無い。幽はそう言って兄を誘うと砂浜に降りていった。
 降り立った砂浜には当然のことながら人っ子一人見かけられない。辺りも暗く、少し離れれば相手の表情の見分けさえおぼつかなくなるような状況だ。
 それでも幽は満足らしく、静雄には弟が上機嫌になっていることがわかった。静雄自身も海に来たのはどれぐらい振りか分からないほどで、波音と潮の匂いに久方ぶりに浸っていた。
「兄さん」
 自然と言葉も少なくなり、二人でじっと海を見つめていたのだが不意に声をかけられて静雄はそちらを振り返る。それと同時に唇を柔らかなものに包まれて、静雄はそのまま動きを止めてしまった。
「かす、か」
「誰も、見ていないよ」
 そう言って幽は笑った。ごく自然に、柔らかく。そうして一歩離れて静雄の方へと右手を伸ばし、軽く首を傾げる。
「ここには誰もいないし、誰も来ることがない。僕らは二人きりだ。ただお互いだけを見て生きていればいい。それ以外にはなにもいらない。なにもない。僕は君のものだ。そして、君は僕のものだ。それだけが永遠に変わらぬ、絶対の真実だ」
 突然流暢に語り出した幽を、静雄は黙ったまま見つめていた。これは幽の言葉ではない、しかし紛れもない幽の言葉だ。
 静雄には詳しくは分からないが、恐らく次でやると言っていた舞台の台詞か何かなのだろう。時折幽はこうして、うまく伝えきれない自分の心を己が演じた言葉に乗せて静雄に伝えてこようとすることがある。
「僕には君だけがいればいい。君もそうであると願いたい。僕の命、僕の全て。君だけが僕にこの世の生を与えてくれる」
 それを聞くのはいつも静雄の役目だ。昔はその言葉を自分ではない誰かに向けているものだと思っていた。
 時にはそう言う事もあっただろう。不特定多数の人間に対する感情を、そう言った形で言葉にしていた頃もあった。
 しかし、その言葉にいつからか静雄はある指向性を感じるようになった。それに気づいた静雄を悟ったのか、静雄がそれを意識するようになってからの幽の言葉はより一層直接的な感情を含む台詞が選ばれる事が多くなった。
 二人の関係が、ただの兄弟から少し違うものになったのはそのすぐ後のことだ。肉体的には成熟を迎えていた二人は、自分たちの本能に抗うことなくその関係を更に進めた。
 背徳の意識は確かにあったのかもしれない。男同士であること、血の繋がった兄弟であること。けれど、それよりもお互いを確かめることの方が何よりも大切だったのだ。
 幽に感情が存在しないなどと、静雄には全く信じることが出来ない。あれほどに激しい感情を抱いた人間を、静雄は他に知らない。
「あい、……っ。兄さん?」
 恐らくは最後のそれだろう台詞を紡ごうとした幽の腕を掴み、静雄は自分の方へと引き寄せた。突然引き寄せられてバランスを崩した幽は、そのまま静雄の身体へと倒れ込んで思わず言葉を途切らせ兄を呼ぶ。
「それは、『お前』の口から聞かせろ」
 静雄は抱き留めた弟の身体を支えながらそう言って目を閉じた。背に回した手に少し力をこめれば、幽の腕が答えるように静雄の背に回って背筋を緩やかに手のひらが撫で下ろしてくる。
「好きだよ、兄さん」
 落ち着いた素の幽の口調でそう言われ、その言葉が静雄の胸にゆっくりと染み渡っていく。どんな綺麗な言葉を数多く尽くされようとも、それが借り物である限りはただ一言の幽自身の言葉に勝るものはないと静雄は思う。
 それでも幽は自分には感情が足りないと言って作られた言葉の力を借りようとするのだ。そうしなければ伝えることができない、と言われた。
 それほどの感情を抱いてもらえることが嬉しい、思っていてくれるだけで伝わるのだと静雄は言ったが幽の気がそれでは済まないようだった。
 だから今は静雄は、重ねられる幽の言葉をある程度は受け止めるが、一番重要なそれだけは幽自身の言葉で言わせるようにしている。その最後の言葉だけが欲しいのだ、と言ったら幽を怒らせてしまうだろうか。
「ああ、俺もだ」
 『幽』の言葉にそう答えて静雄はその身体を抱きしめた。もちろん、抱きしめるために全力を出すことなど出来ない。そんな事をすれば幽に怪我を負わせてしまう。けれども出来るだけ強く、その身体を包み込むように抱きしめて静雄は幽の体温を実感する。
「帰ろうか」
 暫くそうしていた後、ゆっくりと身体を離しながら幽は言った。静雄は腕の力を緩め、幽の身体を解放すると頷く。