入院いちのせ
いつものように病室を訪れると、いるはずの人物はそこにいなかった。白く静かな部屋には綺麗に整った空のベッドがひとつ。
―――けれど、ここ数日でそんなことにも慣れてしまい、最初のように驚いたりはしない。
「またか」と苦笑混じりの呟きを漏らすと、ちょうど投薬の時間だとやってきたナースが戸口に立つ土門の顔を見て状況を理解したらしく同じように「また?」と苦い笑みを浮かべて見せた。
そんな彼女に声を一声掛けて、すぐに土門は目当ての場所へと急ぐ。
階段を上りきり眩しい屋外へと足を踏み出せば、視線の先には思った通り彼、一之瀬の姿があった。
青空の下、屋上のベンチに座って足先と頭で器用にサッカーボールを操っている。
その周りを何人かの子供達が取り囲み、巧みなリフティングに時折上がる無邪気な歓声が離れている土門の元まで届いてくる。
予想通りではあったものの本人を見つけたことに安堵しゆっくりと近付いていくと、声を掛ける前に気配に気付いた一之瀬が「あ、土門」と軽く手を振ってきた。
『あ、土門』じゃないだろう…と肩を竦めて見せても、「もう戻るつもりだったんだ」と悪びれた様子もなく笑う。
「いつもの一之瀬」だ。
少し前まではそんな幼い頃からよく知った笑顔もどこか翳りを見せていたことを思えば、抜けるような青空に似たその笑顔が妙に眩しくて…それ以上は何も言う気になれず、戻るぞとだけ声を掛けて右手を差し出した。
ついこの間まで起き上がることも出来なかった癖に、少し体が動くようになったと思えばすぐに無茶をする。
手を貸してやりながら病室へと戻る途中で、土門はもう一度こっそりため息を吐いた。
病室で待ち構えていたナースにお小言をもらい、点滴に繋がれてベッドに押し込まれた一之瀬は先程よりもなんだか小さく見える。
初めてではないそんな光景を呆れたような、諦めたような複雑な表情で眺めていた土門に対して、一之瀬が今度は少しだけバツが悪そうに笑った。
「土門…怒ってる?」
「…怒ってるんじゃない、呆れてるんだ。お前の脱走にいちいち驚いたり怒ったりするのはもうやめた」
ふたりきりになると半分ほど布団に埋まった顔がくぐもった声で尋ねるのにベッドの傍へとパイプイスを引き寄せ腰をおろし、何度目だ?とその顔を覗き込んで返す。
「だって、さ…体の調子も良くなったし…ベッドに寝たきりの方が重病人になったみたいで嫌なんだよ…」
成功率が半分しかない難しい手術を受けたような人間は十分重病人じゃないのかという自覚が本人にはないらしい。
「そう言って…いきなり無茶して寝込んだのはどこの誰だったかな…」
土門が怒っていないとわかれば安心したように顔を出してそんなことを言うので、本当に呆れた口調でわざとらしく大袈裟に首を傾げると、初めて病室を抜け出した時の騒動を思い出したのか再びもぞもぞと布団に潜り込んでしまう。
一之瀬の焦る気持ちがわからない訳ではない。天才なんてもてはやされていたけれど、人一倍負けず嫌いで努力家なのもよく知っている。それでも―――。
「……呆れてもいるけどな……心配してんだよ」
本心を告げるのは何となく気恥ずかしくて、髪に手を伸ばしてくしゃりと撫でると窓の外へと視線を逸らす。
青空の下で見た一之瀬の笑顔。ピッチに立つ一之瀬はいつだって体格差を感じさせないほど大きく見えた。目の前の小さな体が心許なくて、少し切ない。けれど、こんな風に心配することが出来るのも自分の特権なのだと土門は思っている。今度は傍にいるのだから。
一之瀬は、布団から覗かせた瞳をぱしぱしと瞬かせると、ごめん…と呟いて布団の下で少しだけ嬉しそうに笑った。
end