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壱岐島 六
壱岐島 六
novelistID. 19663
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恋の空騒ぎ

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※人名。越の愛称はホア(越語で「花」)とさせていただいております。



恋をした。恋をしていた。
随分と前の話だ。

例えば長い袖がはためく様だとか、足運びの軽さ、馬の尾のように揺れる無造作に括られた毛先、睫毛が頬に落とす青い影、発音のなめらかな声や、指の長い手。
そうしたものに、あどけない少女のようにいちいち心高鳴らせていた時期があった。父とも兄とも慕っていた。髪を梳くように頭を撫で、髪を結い、衣を着せ替え、可愛いと微笑まれることを幸せに思っていた時期があった。
もう、随分と前の話だ。

* * *

人とバイクで溢れかえる雑踏の中に王耀を見つけても、みっともなく息を呑んだりはしなかった。ただ、僅かに足が止まった。ここにいるはずのない人間であるし、少し前まで本人を回想していたというのもある。野菜を乗せたてんびんを担いだ女性が迷惑そうに脇を通り過ぎていったので、我に返って壁に寄った。
王耀は普段の支那服ではなく、近頃の若者の間で流行っていそうな洋服を着ていた。着心地の良さそうなシャツを肘の辺りまで捲ったのと、カーキ色のストレートパンツを低い位置で穿いている。足元だけ、市街の古い石畳に浮いて見えるわりとかっちりとした革靴だった。露店の一つを覗き込んで、値切りでもしているのか長々と話し込んでいる。そうしていると童顔なこともあって(これは彼に限らずアジアの兄弟全員に云えることだが)そこらの若者と変わりない。過去、彼に感じていた特別は見いだせなかった。代わりに、普段は長い袖の中に隠されている腕が意外と引き締まっていたり、露わな首が思っていたよりも太かったり、頬の角度が記憶の中のものよりも精悍だったりして、そうした小さな違和感がぽつぽつと見つかっていった。
そうこうしていると、随分と熱心に王耀を観察していたことに気づいてぎょっとした。そのことに気づいたことにすっと寒気がした。
立ち尽くしていたのを客になると思ったのか、行商が寄ってきて果物を差し出してきた。安くするよ、お姉さん美人だねえという陽気な調子が今だけは煩わしかった。小さく謝って追い払う。王耀は財布をまさぐっている。話が付いたらしかった。屈託のない笑顔をこれ以上見たくなくて、ノン傘のつばを強く引き王耀に背を向けた。
「ホア」
それが引き金だった。アオザイの裾を蹴って走り出した。後ろから戸惑った中国語がやにわに上がり、硬貨が散らばる甲高い音が響いたが構わず走る。朝、機嫌よく履いて家を出た下ろしたての靴の尖ったつま先が窮屈に痛み、細く高い踵が舗装の荒い道に何度も取られそうになる。行き来する人の流れを無視して入り組んだ小路に入る。小さな椅子に膝を付き合わせて座り込んでいた老人が吃驚したように目を丸くして手から手札のカードを取りこぼした。狭い路地には踵が落ちる度に高い音がよく響く。一本走り抜けると、昼を過ぎても賑わいの衰えない人気の飯店から良い匂いが鼻穴に吹き込んで、乾いた口の中をさらに干上がらせた。店先の粗末なテーブルは満席で、食事の席に飛び込んできた闖入者を、一部は不思議そうに、一部は迷惑そうにじろりと見てくる。
もごもごと謝ってから、どこに行っても人気の減らない市街をまたひた走る。どこへ行けばいいのか、自分の町なのに皆目見当つかなかった。そもそもなぜ逃げる必要があったのか…あの男は名前を呼んだだけだったのに…あの場から逃げ出さずにはいられなかった…
息が上がっている。背中には汗の流れ落ちる気持ち悪い感覚。靴の中の足はとん痛を訴えている。振り返ってみると、雑踏の中の数人が息を荒げて立ち尽くすアオザイの女を見返し、何事もなかったかのように流れていった。撒いた。
撒けたはずだった。
熱く、汗でぬめる手のひらに手首を取られた瞬間に、捕まったと思った。
「なんで逃げる」
問いはベトナム語だった。うるさい、と短く中国語で返す。声調がするりと喉を通っていったことが恨めしかった。
「なんで」
「あんたの顔なんて見たくない」
王耀は黙った。不意に落ちた沈黙が逆に胸を抉った。すると王耀はおもむろに大きな息の塊を吐き出したので、びっくりして思わず顔を上げてしまった。
王耀はなかなかにみっともない格好になっていた。シャツはよれて、襟元は汗に黒ずんでいる。髪は風を受けて乱れ、短い幾筋かが汗で光る秀でた額に張り付き、ズボンの裾は何をひっかけたのか、汚れが引っかかってしまっていた。革靴など、埃をかぶったかして濃い茶の輝きが失せていた。大きく肩を上下して息を宥めにかかる王耀の手だけが、万力のように手首を掴んで離さない。
馬鹿な男。馬鹿な王耀。
それ以上に馬鹿なのは、私だ。
誤魔化しようもなく、王耀に拘束された手首が熱い。顔も火照る。離せ。離さないで。失せろ。いかないでほしい。触れ合う皮膚から伝わればいいと思いながら、そうはならずに良かったとも思う。昔も今も変わりなく、王耀を前にすると矛盾ばかりだ。
汗が引いて体がぶるりと震えた。王耀は手首を掴んだきりでいたが、行き交う雑踏が邪魔そうに道の真ん中で立ち尽くす男女に鼻を鳴らすのにようやく気づくとちらりと辺りを見回してから手首は離された。そして、傍らに引き寄せようとしたその手は、今度は繋がれた。小さい手はすっぽりと大きな手のひらの中に収まっている。

抵抗する気もすっかり失せてしまって、小さな子供のように手を引かれて入ったのは湖の見えるカフェだった。旧市街から随分と走ってきていたのだった。くたびれた格好の男とアオザイの女の組み合わせをじろじろと見てくる他の客をすっかり無視して、王耀は無人のテラス席の奥の方に入る。
カーフェが運ばれてきても互いに無言でいたが、王耀は手を離そうとはしなかった。羞恥心に死にそうだった。
「…困った」
やがてカーフェが冷めてしまうぐらいの時間の後に、心底から弱り切ったかのように王耀は呟いた。今度は中国語だった。
ベトナム語で返す。
「何が」
「手を離したくないアル」
死ぬかと思った。
両の目尻の辺りが火を噴いたかのように熱い。この男、よもや分かっていてやっているのではあるまいな。半ば泣きそうになりながら睨みつければ王耀は戸惑った情けない声でどうしたアルか、と言った。

一生、言ってやるものか。

* * *

恋をした。恋をしていた。
今も、している。



 【終】
作品名:恋の空騒ぎ 作家名:壱岐島 六