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幸福な少年

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彼は幸せでした。
泣きたいことは何もなくて、胸がいっぱいになって、怖いこともなく、ただ心の底から幸せだったのでした。ひょい、と机の上に座って噛み締めるように、あんなことがあったなあ、いろんなことがあったなあ、と笑っていました。そうして、楽しそうに足を二度三度ふらつかせると、囁きのように小さく言いました。あと少しだけ、付き合ってください。


ガタゴトガタガタタ

たくさんの声が幾多の夜に響きます。
誰かには誰かの夜があるように、それぞれの夜を各々が満喫したり、飽き飽きしたり、勝手に過ごしているのでしょう。
近くで、電車が通過する合図のビープ音が響き渡りました。
誰もその音を聞こうとはしませんでした。ですが、彼だけは静かにそれを教室の中で聞きながら、仕方ない、と肩をすくめました。そして、口を開いて、今は少し遠いところで集まってくれている大好きな人達に精一杯の言葉をうたいました。


「新羅さん、セルティさん、大好きでした。母のように、父のように、あたたかくて、少しだけ困ったこともたまにはあったんですけれど、とても嬉しいことばかりでした。門田さん、いつも面倒を何かと見てくれて、ありがとうございます。一人っ子だから、少しくすぐったかったけれど、恥ずかしくも多少はあったけれど、それを全部ひっくるめて好きでした。狩沢さんと、遊馬崎さん、いつもなんやかんやと面白い話をありがとうございました。ちょっと理解できなくてすみません。コスプレは勘弁してください。サイモンさん、お寿司美味しかったです。今度はこっそりメニューに味噌だれの焼き鳥なんてものを追加してくれたら嬉しいです」


彼は幸せでした。
大好きな人達がいることは、とても幸せなことなのです。


「園原さん、あのね…ええと、言えなかったけれど、僕は君が好きでした。どこがって…ううん、は、恥ずかしいけれど、うん、好きでした。青葉くん、色々と巻き込んじゃってごめんね。後は迷惑かけないようにして、ケガしちゃだめだよ。チームのみんなも。正臣ごめん。でも楽しかった。正臣がいないと恐らく僕はここにきてなかったから、きっかけになってくれてありがとう。面と向かって言えないけれどさ、一番の親友だよ。…ううん、やっぱはずかしいな」


ガタゴトガタガタタ

夜空は今日も綺麗でした。星は見えないけれど、月は見えました。
丸いそれは変わりようもなく、佇んでいるだけですけれど、際だって澄んでいるようにも見えました。


「臨也さん、僕はきっとあなたを許せないけど、それも今となっては許せないからこそ受け入れられる気がします。後処理はお好きなようにしてください。だけれど、ええと、こう言ってはなんですけど、僕はけっこう臨也さん好きな気がします」


彼は傍にあったボイスレコーダーを止めようとして、何かに気づいたようにピタリとその手を止めました。そして、まだ録音しつづけているそれから視線を動かして、ずっとずっと静かに目の前に立っている人に向かって柔らかく笑いました。彼が笑えば笑うほど、床に雫が落ちていくことがどうしてだか寂しくて仕方ありませんでした。少しだけ手を伸ばして、でも触れないで。彼は、少年はわらいました。


「いつか、また」



短い音が、反響して教室中に響き渡ります。その瞬間、電車が通過していきました。窓の外を大きな黒い電車が彼を乗せて、去っていきます。

その様を見て静かに佇んでいた大人が瞬きをすると、そこにはずっとずっと録音しつづけているボイスレコーダーだけがありました。震える手で録音を止めて、そこでようやっと彼は声を出すことが許されたのです。


知っています。
知っていました。
彼は彼がとても幸福であったことを知っていました。
自分と共にいて、しあわせです、と幼く笑ったことを。手を握ったその脆さを。意外なところで強情な性格も。抱き締めたときの頬を染めた愛らしい表情も。全部が全部、あっけないということも。


床に膝をついて、荒い息を繰り返しながら彼の名前を呼びます。大層な名前でした。でもどこか当てはまるような強さの芯を持つ少年でした。残っただけのボイスレコーダーを壊さないよう、抱き締める大人の耳には少年の声が甘く柔らかに響いて、ほどけるように消えていきました。愛の言葉もなく、ただいつか、と言った少年に会いたくてたまらないのですが、それは到底かなわないのだと、大人は知っていました。



作品名:幸福な少年 作家名:高良