はじめてのことば。
ハンガリーがオーストリアの家に暮らすことになって、少し経った、ある日のことだった。
オーストリアが自室でピアノを弾いていると、ドタドタと慌ただしい足音が聞こえる。また彼女ですか、と頭を抱えると自室の扉が盛大な音を経てて開かれた。
「オーストリア!」
扉を勢いよく開けて入ってきたのは、ハンガリーだった。髪は梳かしていなくてぼさぼさだし、顔は傷だらけだ。服装こそオーストリアの用意したワンピースを着ていたが、それも所々汚れている。オーストリアはハンガリーが用件を言う前に彼女の声を遮った。
「ハンガリー!部屋に入る時はノックをしなさいといつも言っているでしょう!?それから、髪をきちんと梳かしなさい!顔も傷だらけで・・・一体何をしたらそんな風になるんですか!おてんばもいい加減になさい!」
オーストリアのすごい剣幕に押され、ハンガリーはおお、わりい・・・と呟いて手櫛で髪を梳く。
「や、で、でもよお・・・」
ぼそぼそと言葉を濁すハンガリーに、オーストリアはやれやれと肩を落とした。
「・・・とにかく。用件は後で聞きます。まずはその髪をなんとかしましょう。ほら、お座りなさい。」
オーストリアは椅子と手鏡を持ってきて、ハンガリーに座るように促した。
「・・・?」
何をするんだろうと首を傾げたハンガリーの手に手鏡を持たせ、オーストリアはぐい、と彼女の頭を掴む。
「前、向いていてくださいね。」
「お、おお・・・」
突然髪に触れられて、ハンガリーは間延びした返事をする。
「返事は『はい』しか認めませんが。」
「は、はい!ごめんなさい!」
オーストリアは慣れた手つきでハンガリーの髪を梳いていった。くすぐったいような、恥ずかしいような、そんな気持ちでハンガリーはおとなしくそこに座っていた。
「貴女は女性なんですから、言葉遣いも、動作も、もっと女性らしくしなければいけないんですよ?わかっていますか、ハンガリー?」
髪を梳かすときも、やはりオーストリアのお小言は止まらなかった。その台詞を覚えてしまえるほど、繰り返されてきた言葉。
オーストリアが自分のことを考えてくれているのは知っていた。それが彼の責任であり、使命であり、義務でもあったからだ。小言を言われるのは、嫌いではなかった。それはきっと、オーストリアが自分のことを思って言ってくれているのだと、わかっているからだった。ハンガリーはこんな風に、大切にされたことはなかった。悪い気はしなかった。けれど、変化を恐れる自分が、どこかにいた。どうしたらいいか、わからなくなる。
「わ、わかってるよ・・・で、でもこんな、今日からお前は女だから女になれ、って言われても・・・俺、どうしたらいいか、わかんねーし・・・今までの俺が、いなくなっちまうみたいな、そんな気がして・・・」
怖かった。自分の立っている足場は今にも崩れてしまいそうなほど脆くて、そこから一歩も進むことはできないのだ。「私」になったら「俺」には戻れない。
「・・・ゆっくりで、いいんですよ」
オーストリアはハンガリーの頭にぽすんと手をのせた。
「そうなることを決めたのは貴女だったはずですよ?動作や言葉遣いが変わっても、貴女が貴女であることは、変わらないのですから。」
手鏡越しに、オーストリアと目があった。にこりと笑う。
女になると決めたのは、ハンガリーだった。オーストリアは選択の自由をくれた。
『どちらで生きるかは、貴女が決めなさい。けれどどちらを選んでも、貴女には辛い道になるでしょう。私は貴女がどちらを選んでも、必ずそばにいて、貴女を助けます。』
その言葉を信じた。ハンガリーは、女になることを決めた。そのために、オーストリアは助力を惜しまなかった。言葉遣いや動作だけでなく、ダンスや料理や裁縫など、全てに気を遣ってくれている。
「そ、う・・・かな・・・。俺、ゆっくりでも、ちゃんと、女になれるかな?」
「私がお手伝いしているのですから、そうなるのは当然です。」
オーストリアが、すと櫛で梳くと、ハンガリーの髪はふわりと揺れた。
「できましたよ、ハンガリー」
手鏡に目をやるとぼさぼさだった髪がきちんと梳いて、さらさらになっていた。鏡の端にオーストリアの笑顔が見えて、恥ずかしくなる。
「あ、ありがと、な」
「どういたしまして。・・・やっぱり、おろしたほうがいいですね、髪」
ハンガリーがオーストリアのほうに振り返ると、毛先をいじられる。
「え?」
「髪、前は結んでいたでしょう?私はこっちのほうが好きですよ。」
にこりと笑ったオーストリアを見て、ハンガリーは真っ赤になった。がたんと椅子から立ち上がり、急いで部屋を出る。
「あああああありがとなオーストリア!じゃ、俺、急いでっから!」
ハンガリーは、バタンと音を立てて扉を閉めた。残されたオーストリアは首を傾げる。
「おかしな人ですね・・・」
心臓がうるさく鳴っていた。
(なんだ、これ・・・!俺、どうかなっちまったんじゃねーか!?)
赤くなった頬はまだ直らないままだ。
彼女が『それ』に気付くのは、もう少しあとのことである。
「好きですよ。」
オーストリアの言葉だけが、頭の中をぐるぐると回っていた。