懐かしい土地
自分が住んでいた土地ですから道も分かるだろう。そう思い、会議が終わってから一人で散歩に出かけました。
そして・・・、みごとに迷ってしまいました。
よくよく考えると、ここに住んでいたのも何十年、いや、何百年前のこと。それだけの時間が経過していれば、地形も雰囲気も変わっていて当たり前・・・というか、変わっていないとおかしいのです。そんな事も考えずに一人でのこのこと散歩に出た私は、迷って当然といえましょう。
辺りを見回しても家ばかり。どうやら住宅街に入り込んでしまったようです。
どの辺りにいるのかも分からないので、過去の記憶と照らし合わせる事もできません。考えても分からないので、適当にぶらぶらと歩いていると、急に視界が開けました。
そこは、大きな公園のようです。季節は春。芝の緑と空の青、そして満開の桜の薄桃色が鮮やかで美しく、まるで一つの絵のようでした。平日ということもあり人気は少なく、公園の広さがこれでもかというほど強調されています。
私は公園を斜めに突っ切り、何かに導かれるように、木々の中へと入っていきました。
新緑の景色の中、小さな白い花を咲かせている一本の木がありました。
「梅・・・ですか。」
それは、この公園で唯一の梅の木でした。
梅は風に枝をかすかに揺らしながら、静かにたたずんでいます。その時、びゅぅっと強い風が吹きました。梅の小さな花びらが風に舞い踊ります。花びらの散る中、私は昔の事を思い出していました。
昔、私がこの土地に住んでいた頃、この梅は家の近所にありました。つまり私は、この辺りに住んでいたという事になります。すっかり様子が変わってしまっていて、まったく気がつきませんでした。私は春になるとよくここへ来て、美しい梅の花を眺めていました。
・・・そう、座敷童たちと一緒に。
あの頃は、私にも彼女たちを“みる”ことができました。話す事も、触れる事もできたのです。いつからでしょうか。気がつけば、私は一人でした。いや、私は彼女たちを“みる”ことができなくなっていました。
「あなた達は、そこに居るんですか?・・・誰か、返事をしてくださいよ。」
何かが、誰かが“み”えるかもしれない。
何かが、誰かが返事をしてくれるかもしれない。
以前のように、昔のように。
そう思って梅に目を凝らし、風の音に耳を澄ませましたが、何も感じられません。
やはり私には・・・。
気がつけば辺りは薄暗くなっていて、もともと少なかった人も、いなくなっていました。きれいなグラデーションのかかった空や山間に沈んでゆく太陽は、私の記憶にあるままでした。
ここから見える美しい景色は全て、昔の、美しいままでした。
私はその景色を見て、自分の愚かしい勘違いに気がつきました。
「私はずっと、あなた達が変わってしまったんだと思っていたんです。でも、それは違うようですね。」
正面からまっすぐ見つめた梅は、なんだか、微笑んでいるように感じられました。
「変わったのは、私の方だったんですね。」
静かにたたずむ梅に深々とお辞儀をして、懐かしい土地をあとにしました。
今の居場所へと帰るために。
人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほいける
紀貫之 『古今和歌集』より