指
「指が」
「うん?」
「指が、長い」
読書をするスガタの指を、タクトはじっと見つめて呟いた。
休み時間の教室。賑やかな喧噪のなか、スガタの席で向き合う二人の間だけぽっかりと静穏が落ちている。
大事な友人の少女は日直の仕事でこの場にはいない。
「そうかな」
「うん。指は長いし。スガタの手は、きれいだ」
その言い方が幼くて、スガタは小さく笑った。
本に向けていた視線をタクトに向ければ、タクトの視線はページをめくるスガタの指にそそがれている。
そのまなざしは一心で、おもちゃに夢中になる子どもか、獲物を前にした猫のよう。
ためしにページをめくってみれば、それを追うようにタクトの視線も動く。
本当に猫のようだと、スガタは笑みを深めて本を閉じた。
「読まないの?」
「ああ」
本の内容よりもタクトを見ている方がよほど面白い。
タクトは不思議そうに、ふーん、と大きな猫眼をくるりとさせた。その表情が少し残念そうに見えるのはスガタの思い上がりだろうか。
スガタは自分の手を眺めてみるが何の変哲もない手だと思う。むしろ稽古をしているからいくつも傷の痕があって、綺麗だとは思わない。
「自分じゃ分からないけど、そうなのかな」
「うん。きれいな手だ」
触ってみても、いい?
そんな風に尋ねなくても嫌だと言うわけがないのに。
触れたくても触れられないのはこちらだ。自由で爛漫に見えて、大事なところには触れさせないし、触れないし、こちらが許さなければ関係すら持とうとしない。
潔癖にも思える、純粋。
そんなタクトが自ら触れてみたいと言う。スガタはまるで踊りでも誘うかのような優雅な動作で手を差し出した。もちろん、意識をして。
「どうぞ?」
タクトは目の前に差し出されたスガタの手をまじまじと見つめ、数度瞬きをし、そしてそっとその手をとった。
「手、大きいな」
「そう?」
「うん。手のひらが、大きいのかな。やっぱり、指も長くて、節もしっかりしてる。稽古してるからかな、皮膚も硬くなってる」
まるでスガタの手を覚えるかのように、手のひら、指先、手の甲、そして筋と指でなぞり、確かめるように呟いていく。
うつむいて熱心に見入るタクトに、スガタは見入る。
「タクトの手は薄いね」
スガタもタクトの好きにさせながら、タクトの手を観察し、指を這わせる。
「剣を握るからもっと厚いかと思ったんだけど」
「肉刺はいくつもあるよ。スガタにも、あるね」
「ああ」
「おそろい?」
タクトは小さく笑い、スガタは一瞬止まった。
「……ああ、おそろいだ」
自分はちゃんと笑えているだろうか。声は震えていなかっただろうか。少し間が空いてしまったが不審に思われなかっただろうか。
「でも、スガタの手の方がいい」
微笑むタクトはとても満足そうで、スガタの手に力が入ったことなど気づいていないだろう。
「……そうかな」
「うん。スガタらしくて、好きだな」
手もスガタの一部なのだからスガタらしくて当然なのだが。笑うタクトにそんなことは言えない。
なんだか、先ほどからやられっぱなしな気がしてならない。
嬉しくないわけではない。むしろその逆だ。けれども、目の前のご機嫌な赤色を心底困らせてやりたい気持ちもあふれてくる。
可愛さあまって憎さ百倍? なるほど、道理至極だ。
スガタは笑みを深め、眼を細め、それはそれは甘い声を作る。
「僕はタクトの手のほうが好きだよ」
きょとりとタクトの眼が丸くなる。その様子にスガタはさらに眦を下げた。視線はそのまま、その無垢な眼へ向けたまま。
タクトの手を軽く握る。大きさはさほど変わらないが、厚さが違うので小さく感じる。
「指は細いけど、指先は硬い」
スガタの指がタクトの指先を撫でる。
「手の甲に小さい傷がいくつもあるけど、むかし稽古でできたのかな?」
形の良い親指が、慈しむように傷をなぞる。
「それにタクトの手、薄いから、ほら、筋も綺麗に浮き出てる」
筋のあいだの溝をゆっくりと辿り、その指先は袖口にまで届いた。
「手首、細いし。皮膚も薄いのかな? 脈とかすぐにわかるね」
手首をそっと掴まれる。あっさりと指が回ってしまう、細い手首。
指先から伝わる血の流れは、若干速い気がする。
「うん。やっぱり、僕はタクトの手の方が好きだな」
にっこりと、笑ってそっと手を離す。少しは報いることができたらしい。目の前の顔の見事なまでに赤いこと。
潔癖なくせに好奇心の強い猫に与えた刺激は強かっただろうか? この猫にはそれくらいでちょうどいいのかもしれない。誰かに殺されてからは遅い。いっそ誰かにとられるくらいなら自分が殺してしまうだろう。それはもう、真綿で包みこむように逃げられないように、殺されたと気付かれないようにじわじわと。
「どうした、タクト?」
自分でも嫌な笑顔を浮かべているだろうと思う。けれども視線は逸らさない。タクトはちらりと瞼を伏せ、「あ〜」やら「う〜」やら唸りながら、なんとも言えない表情でスガタを見ている。
「……スガタ」
「うん?」
「触り方が、えっちぃ」
ようやく、それだけ呟くとタクトは机に突っ伏した。突っ伏したいのはこっちだと、スガタは心の中で叫んだ。もちろん、顔には笑みが貼り付けてあるが、この調子だといつ剥がれ落ちるか分からない。
タクトはうつ伏せたまま、小さな呟きを続ける。
「あーああ。王子様はオーラだけでなく仕草まで王子様なんだね。だから女の子たちが騒ぐんだ、納得したよ」
「…タクト」
「この人タラシ。フェロモン王子。指先まで色気垂れ流しだなんて」
「……タクト」
独り言のように訥々と言葉を続けるタクト。言葉の端々から非難の色が伺えるのに、その指はスガタの手に触れている。
もういっそ手ではなく君が好きだと言ってしまおうか。けれども、まだ時期尚早だ。この純粋な猫が自らの好奇心でもっと深みに嵌るまで。
おちてくるのを楽しめるのは先におちたものの特権だ。そうでも思わないとこの猫相手にやってられない。
こちらの手に触れているタクトの指を握れば、じっと下からねめつけられる。八の字に垂れ下がった眉では迫力も何もない。
「でもタクト、この手好きなんだろ?」
せいぜい余裕ぶった笑みで問いかければ、タクトは握られてる指に少し力を込めて、そっと握り返し、
「そーだよ。悪い?」
ああ、これでは好奇心に殺されたのはどちらか分からない。そもそもこちらに分があるわけがない。
「いや、全然」
先に惚れた方が負け。先人の言葉は確かに正しかった。
そろそろ本気で手を出してしまおうかと不埒な考えが頭をよぎったとき、休み時間終了のチャイムが鳴った。
「じゃあ、スガタ。またな」
「ああ」
するりとスガタの手の中から指が抜けていく。まだ火照っているらしい顔はそのままに、タクトは自身の席へ戻った。スガタの手のひらにはまだぬくもりが残っていて、そこだけが熱い。チャイムが鳴り終わると同時に戻ってきた幼馴染は、リスのような眼を何度も瞬かして首をかしげた。
「なんか、良いことでもあった?」
「ああ」
「あと、みんなの視線がスガタ君とタクト君に向いてるんだけど、何かあった?」
「さあ?」
「うん?」
「指が、長い」
読書をするスガタの指を、タクトはじっと見つめて呟いた。
休み時間の教室。賑やかな喧噪のなか、スガタの席で向き合う二人の間だけぽっかりと静穏が落ちている。
大事な友人の少女は日直の仕事でこの場にはいない。
「そうかな」
「うん。指は長いし。スガタの手は、きれいだ」
その言い方が幼くて、スガタは小さく笑った。
本に向けていた視線をタクトに向ければ、タクトの視線はページをめくるスガタの指にそそがれている。
そのまなざしは一心で、おもちゃに夢中になる子どもか、獲物を前にした猫のよう。
ためしにページをめくってみれば、それを追うようにタクトの視線も動く。
本当に猫のようだと、スガタは笑みを深めて本を閉じた。
「読まないの?」
「ああ」
本の内容よりもタクトを見ている方がよほど面白い。
タクトは不思議そうに、ふーん、と大きな猫眼をくるりとさせた。その表情が少し残念そうに見えるのはスガタの思い上がりだろうか。
スガタは自分の手を眺めてみるが何の変哲もない手だと思う。むしろ稽古をしているからいくつも傷の痕があって、綺麗だとは思わない。
「自分じゃ分からないけど、そうなのかな」
「うん。きれいな手だ」
触ってみても、いい?
そんな風に尋ねなくても嫌だと言うわけがないのに。
触れたくても触れられないのはこちらだ。自由で爛漫に見えて、大事なところには触れさせないし、触れないし、こちらが許さなければ関係すら持とうとしない。
潔癖にも思える、純粋。
そんなタクトが自ら触れてみたいと言う。スガタはまるで踊りでも誘うかのような優雅な動作で手を差し出した。もちろん、意識をして。
「どうぞ?」
タクトは目の前に差し出されたスガタの手をまじまじと見つめ、数度瞬きをし、そしてそっとその手をとった。
「手、大きいな」
「そう?」
「うん。手のひらが、大きいのかな。やっぱり、指も長くて、節もしっかりしてる。稽古してるからかな、皮膚も硬くなってる」
まるでスガタの手を覚えるかのように、手のひら、指先、手の甲、そして筋と指でなぞり、確かめるように呟いていく。
うつむいて熱心に見入るタクトに、スガタは見入る。
「タクトの手は薄いね」
スガタもタクトの好きにさせながら、タクトの手を観察し、指を這わせる。
「剣を握るからもっと厚いかと思ったんだけど」
「肉刺はいくつもあるよ。スガタにも、あるね」
「ああ」
「おそろい?」
タクトは小さく笑い、スガタは一瞬止まった。
「……ああ、おそろいだ」
自分はちゃんと笑えているだろうか。声は震えていなかっただろうか。少し間が空いてしまったが不審に思われなかっただろうか。
「でも、スガタの手の方がいい」
微笑むタクトはとても満足そうで、スガタの手に力が入ったことなど気づいていないだろう。
「……そうかな」
「うん。スガタらしくて、好きだな」
手もスガタの一部なのだからスガタらしくて当然なのだが。笑うタクトにそんなことは言えない。
なんだか、先ほどからやられっぱなしな気がしてならない。
嬉しくないわけではない。むしろその逆だ。けれども、目の前のご機嫌な赤色を心底困らせてやりたい気持ちもあふれてくる。
可愛さあまって憎さ百倍? なるほど、道理至極だ。
スガタは笑みを深め、眼を細め、それはそれは甘い声を作る。
「僕はタクトの手のほうが好きだよ」
きょとりとタクトの眼が丸くなる。その様子にスガタはさらに眦を下げた。視線はそのまま、その無垢な眼へ向けたまま。
タクトの手を軽く握る。大きさはさほど変わらないが、厚さが違うので小さく感じる。
「指は細いけど、指先は硬い」
スガタの指がタクトの指先を撫でる。
「手の甲に小さい傷がいくつもあるけど、むかし稽古でできたのかな?」
形の良い親指が、慈しむように傷をなぞる。
「それにタクトの手、薄いから、ほら、筋も綺麗に浮き出てる」
筋のあいだの溝をゆっくりと辿り、その指先は袖口にまで届いた。
「手首、細いし。皮膚も薄いのかな? 脈とかすぐにわかるね」
手首をそっと掴まれる。あっさりと指が回ってしまう、細い手首。
指先から伝わる血の流れは、若干速い気がする。
「うん。やっぱり、僕はタクトの手の方が好きだな」
にっこりと、笑ってそっと手を離す。少しは報いることができたらしい。目の前の顔の見事なまでに赤いこと。
潔癖なくせに好奇心の強い猫に与えた刺激は強かっただろうか? この猫にはそれくらいでちょうどいいのかもしれない。誰かに殺されてからは遅い。いっそ誰かにとられるくらいなら自分が殺してしまうだろう。それはもう、真綿で包みこむように逃げられないように、殺されたと気付かれないようにじわじわと。
「どうした、タクト?」
自分でも嫌な笑顔を浮かべているだろうと思う。けれども視線は逸らさない。タクトはちらりと瞼を伏せ、「あ〜」やら「う〜」やら唸りながら、なんとも言えない表情でスガタを見ている。
「……スガタ」
「うん?」
「触り方が、えっちぃ」
ようやく、それだけ呟くとタクトは机に突っ伏した。突っ伏したいのはこっちだと、スガタは心の中で叫んだ。もちろん、顔には笑みが貼り付けてあるが、この調子だといつ剥がれ落ちるか分からない。
タクトはうつ伏せたまま、小さな呟きを続ける。
「あーああ。王子様はオーラだけでなく仕草まで王子様なんだね。だから女の子たちが騒ぐんだ、納得したよ」
「…タクト」
「この人タラシ。フェロモン王子。指先まで色気垂れ流しだなんて」
「……タクト」
独り言のように訥々と言葉を続けるタクト。言葉の端々から非難の色が伺えるのに、その指はスガタの手に触れている。
もういっそ手ではなく君が好きだと言ってしまおうか。けれども、まだ時期尚早だ。この純粋な猫が自らの好奇心でもっと深みに嵌るまで。
おちてくるのを楽しめるのは先におちたものの特権だ。そうでも思わないとこの猫相手にやってられない。
こちらの手に触れているタクトの指を握れば、じっと下からねめつけられる。八の字に垂れ下がった眉では迫力も何もない。
「でもタクト、この手好きなんだろ?」
せいぜい余裕ぶった笑みで問いかければ、タクトは握られてる指に少し力を込めて、そっと握り返し、
「そーだよ。悪い?」
ああ、これでは好奇心に殺されたのはどちらか分からない。そもそもこちらに分があるわけがない。
「いや、全然」
先に惚れた方が負け。先人の言葉は確かに正しかった。
そろそろ本気で手を出してしまおうかと不埒な考えが頭をよぎったとき、休み時間終了のチャイムが鳴った。
「じゃあ、スガタ。またな」
「ああ」
するりとスガタの手の中から指が抜けていく。まだ火照っているらしい顔はそのままに、タクトは自身の席へ戻った。スガタの手のひらにはまだぬくもりが残っていて、そこだけが熱い。チャイムが鳴り終わると同時に戻ってきた幼馴染は、リスのような眼を何度も瞬かして首をかしげた。
「なんか、良いことでもあった?」
「ああ」
「あと、みんなの視線がスガタ君とタクト君に向いてるんだけど、何かあった?」
「さあ?」