悲しみ連鎖
それは暑い、夏の日でした。
あの日から幾年が経ったでしょうか。国は最早戦後ではないと言われる程に復興しましたが、桜には一向に目覚める気配がありませんでした。昏々と眠り続ける桜。
私はずっとこの病室に通っています。何年も、何年も。それは贖罪の行為なのかもしれません。若しくは己に消えない傷痕を刻み付ける為の行為。理由が何であれ、私は通い続けます。ここに、桜の眠る病室に。
誰に何と言われようと構いませんでした。桜は可愛い可愛い妹なので。掛け替えのない、肉親なので。心ない謗りなど私の耳には届きません。私を案じる数少ない声も、私の耳には届きません。
私はただ、無でした。食べていても話していても眠っていても、常にそこに心はありませんでした。あるのは抜け殻の体だけ、そこに私は存在しません。どこかに囚われているのです。暗い、淀んだ空間に。外には光が溢れていますが、それは私にとっては恐怖の対象でした。そんなところに出たら、全て晒け出してしまうことになります。染み付いて取れない血痕を、隈の浮いた顔を、血走った目を。それが私にはどうにも耐られませんでした。
人の目が口が全てが私を人殺しと責めるのです。私のせいで全てを失ったのだと責めるのです。覚悟していた筈のそれに、私は耐えることが出来ませんでした。誰もが私を白い目で睨み付けます。後ろ指を指して罵ります。私は聞こえない振りで、気にしていない振りで、それでもやはり、堪えていました。
桜の病室に通うのは、それらから逃げる為もあったかもしれません。彼女の個室に入って扉を固く閉ざしてしまえば、大抵のものは締め出すことが出来たので。
「桜、」
私はそっと桜に呼び掛けます。
瞼を震わせることさえしない彼女は、まるで精巧に作られた人形か何かのようでした。それでもちゃんと息をしているのです。心臓が動いているのです。眠っているだけで、生きているのです。
体に異常はないと言われました。問題は精神の方だろう、と。私たちのような存在に人間の基準がどれ程当て嵌まるかはよく分かりませんが、恐らくその通りなのでしょう。占領され蹂躙された、文化。
それはそのまま桜に伝わります。開国後、おっかなびっくりながら己から受け入れたのとは訳が違うのです。それは桜にとってこの上ない負担に違いありません。全ては私の責任なのだから、代わってあげられたならどれだけいいか。そう、思います。
けれど私の願いは適わず、祈りは届きません。誰にも、決して届きはしないのです。
「私は…」
「………にい、さま…?」
耳が拾い上げた声に、私は伏せ気味にしていた顔をばっと上げました。
そこには桜が、変わらぬ姿で、横たわっていました。けれど、けれど…嗚呼。
その目は開いて、ぼんやりと私を捉えていました。きょとりと瞬く仕草は、最後に見た時と何ら変わりありません。
私は驚きで声が出ませんでした。何の前触れもなく、こうもすんなりと目覚めるものでしょうか。私は都合のいい夢を見ているのでは、ないのでしょうか。呆然としている私を余所に桜は体を起こし、そっと、私に触れました。掌から伝わってくる温もりに、私は息が詰まるのを必死で抑えます。
「兄様…お元気そうでよかったです。そんなに酷い怪我は、しなかったんですね」
そうでもないと、否定することは出来ませんでした。目覚めて早々、どうしてこの子は私の心配などするのでしょうか。今まで眠り続けることになった原因は、偏に私だというのに。どうしてそんな笑顔を、私に向けることが出来るのでしょうか。どうして、どうして、どうして。
私には分かりません。一番私を責めるべきなのは桜ではありませんか。私はそれを覚悟し、受け入れる心構えでした。せめてその言葉からは逃げないと、心を決めていました。
それなのに、桜は笑うのです。無事でよかったと、あの頃のままの笑顔で、私に。
「に、兄様? どこか痛むんですか?!」
ずるずると身を屈めてベッドに突っ伏してしまった私に、桜はあわあわと声を掛けます。触れてくる手はどこまでも、優しく柔らかでした。
私は何とか気持ちを立て直し、大丈夫ですと桜の手に自分の手を重ねます。にこりと微笑むと、桜も淡い笑みを口元に上らせます。
私たちは示し合わせたように、言いました。
「お帰りなさい、桜」
「お帰りなさい、兄様」
それは暑い暑い夏の日、でした。