烙印
――あ、青。
踏み出す足先も軽やかにと、心がけて渡る白黒の道の先にあの人を見つけた。
「臨也さん!」
駆け寄って見上げると、まぶしげに細められていた瞳がふわりと開き、赤い虹彩が僕を認識したのがわかって嬉しくなる。
「やあ、おはよう。元気だね」
美貌の人と言えばいいのだろうか、モノクロめいた朽葉色の街中でもくっきりとしたコントラストでその存在を知らしめるような。
僕の名付け親である折原臨也さんはそういうひとなのだ。
今日はその腕に抱えた白い百合の花束が、凛とした精悍さを際立たせている。白い花弁からこぼれる芳香が甘い。
「その花束、どうしたんですか?」
思わず訊ねると、頭をぽんぽんと撫でられ、それからその指先は臨也さんの口元に移った。人差し指を唇に軽く触れさせて笑う仕草に思わず見蕩れる。
「内緒、さあこんなところで立ち止まっては危ない。学校だろう?行っておいで」
流れるように右手を上げて指し示す信号がそろそろ点滅をはじめていた。慌てて交差点を渡り、振り返ると臨也さんも反対側に渡りきって此方を見ている。
動き出した車達が視界を遮る寸前まで、手を振る彼は抱えた花と天から切れ切れの雲間を降りる陽光に彩られて、絵画に描かれたセラフのように美しい。
唐突にぎゅっと胸が痛くなった。あの人は綺麗すぎる。
思わず後ずさりして、目に焼きついた光景を振り切るように学校への道を駆けた。
母が臨也さんについて話すとき、とても怖い人なのよと言う。僕だって臨也さんが綺麗なだけの人ではないと知ってる。もう遠ざかった日、さながら烙印を家畜に施すように、あの人は僕に恐怖を植え付けた。同い年のどの子だってあんな恐ろしい目にあったことはないだろう。
いつだったか、あの時のことをそっと臨也さんに聞いてみたことがある。
「君はちょっと早めにワクチンを打たれたようなものさ、来るべき挫折に対してのね。確かにあの時の君ではちょっと早くて拒絶反応もそれなりに激しかったろうけどー」
青空とビル群が映える大きな硝子窓を背に大きな黒皮の椅子へ沈み込むよう座り、子供じみた所作でくるりくるりとゆったり回る臨也さんがぴたりと僕の目を捕らえて止まり、ぐいとこちらへ顔を寄せるとニヤリと口の端をゆがめて言う。
「今の君がそうしてある、君は今の自分をどう思う?」
初めは縫ぐるみ、それから絵本、英語のアニメDVD、その他。物心付いた頃からぽつぽつと、贈り物は僕に手渡しで訪れた。プレゼントを抱えた僕をじっと観察するような目でその人は眺める。しばらくすると飽きたとでもいうように目が逸らされ、母と二言三言交わして帰ってゆく。
僕が言葉を解し始めた頃、彼が僕に初めて名前を教えてくれた。
「俺は折原臨也、君の名づけ親なんだ」
おおよそ僕が『人』に足る条件を得るに到って、彼は親しく笑いかけてくるようになったのだと思う。彼の教えや言葉はその時から徐々に僕に喰い込み、成長の糧と軸になっていった。といっても、臨也さんが僕の元を訪れるのは数ヶ月に一度。忙しい彼にとって僕の存在は限りなく薄かったに違いない。
あの出来事が起きたのは、ちょうど僕の誕生日間近のことだった。曖昧でよくは覚えていないが僕は誘拐されたのだという。ただ、そのことに関しては感慨も持っていない。本当の恐怖体験はその後に訪れたのだから。
「いいぃざぁぁぁやああく〜んよぉぉ!!池袋にくるなっていってんだろうが!」
怒号にびりりと空気が震え、時が止まった。すっと臨也さんが僕の視界を塞ぐ様に立ち上がり、鬼気迫る声へ何事かを言っていた。コートの裾を握って見上げた先、怒りを纏う形相は、これまで触れたことがある怒りの中でもぴか一の凄まじさだった。
逆立つたてがみのような金の髪、米神に浮く青筋に炯々と輝く目。辺りに渦巻く闘気に圧倒されて思わず泣きそうになった時、抱き上げられた腕の中で僕はそれを見る。
かつて見たことがあるどの笑顔とも違う、優しすぎる微笑みを。
本能で、僕は瞬時に意味を理解し心臓が縮みあがるほどに恐怖した。
美しく慈愛に満ちた表情は、その実冷徹なまでに『黙れ』と僕に命じたのだ。謡うように母の迎えを告げる声はその期限を。
反射的に応じて生じた怯えを宥めるように撫でた手は、よく出来ましたと言わんばかりに甘やかに僕の背を滑った。
その日から暫く、夜中に泣いて飛び起きるという奇行で母を困らせてしまうのだか、大人たちの間では誘拐で受けたショックのせいだろうと腫れ物扱いで。
僕は違うとも言えず、口を噤んで心に押し付けられた烙印が癒えるのをひたすらに待った。
今でも乗り越えられたとは言い切れない。だってちりちりと臨也さんを見るたび疼く。
あの綺麗な人は僕のトラウマで。それを抱えながらも彼と関わり続けるのは何故なのか。臨也さんの言う「今の自分」の答えは少なからずそこにあるような気もするのだ。
学校からの帰り道、ふるふるとポケットで振動するGPS付き携帯に気付く。取り出して見る画面に臨也さんからのメールの到着を知る。
朝会ったばかりなのにと、思いながら開くと『池袋、ミルキーウェイで』と短い文。
「池袋……大丈夫なのかなあ」思わず戸惑いが声になってしまった。だって池袋には臨也さんの天敵、平和島静雄さんがいる。でも、美味しいパフェは魅力的だ。
池袋駅に着き、迷い迷い歩む道でふと日が陰る。見上げると少し遠くに舞う自販機が日を遮って落下しつつあった。
「いざやあああああああああ」
低音で辺りに響く声を耳にしては苦笑いしか出てこない。
――あーあ、パフェはお預け。
きっと二人は今頃追いかけっこだろう。溜息をつくと携帯メールで臨也さんへ『見ました。また今度』と送信する。
これもほんの些細な日常の一つだと僕は知っている。臨也さんと次に会うのはまた数ヶ月後になるだろう。