鱗
いささか水が冷たいが、慣れてしまえばどうということもない。
手ぬぐいを井戸の縁にかけ、胴着を脱ぎ、汲んだ井戸水を上半身に無造作にかけていく。
鍛錬で負った小さな傷や痣に冷たさが染みる。
この痛みは、嫌いじゃない。
「で、いつまでコソコソと覗いているんだ?」
「あら、バレてた?」
木陰から舞い降りる黒い影。詫び入れるでもなく嘯く、武田の忍。
「Ah? 気付けとばかりに視線寄こしてたくせに」
「いやぁ、思わず独眼竜の身体に魅入っちゃってね」
飄々とした態度はどこまでが本気か分からない。本気で言われても全力で引くだけだが。
「あ、何か失礼なこと考えただろ」
「心に疚しいことがあるからそう思うだけじゃねぇか?」
視線も交えず会話するのはいつものこと。戦場以外でこの忍と視線を交えることなど皆無に等しい。偵察やら書状を届けに来るやら、奥州を訪れた際にはこうやって言葉を交わすこともあるが、そのときも互いの顔を見ずに独り言のように話すのが常。
もっとも、こちらが忍に視線をやらないだけで、向こうは凝視と言っても良いほど見つめている時があるのだけれど。それは知らない振りを決めている。おそらく相手も気がついているが何も言わない。
心地良い距離感。それを気に入っているから忍が訪れる度に自ら声をかけるのだけれど。
「で? 今日は何の用だ」
真新しい手ぬぐいで身体を拭く。麻の葉文様の手ぬぐいが水を吸い、僅かに滲んだように見える。
「んー、別に? 偵察してたら独眼竜が水浴びしてるからさ。思わず見ちゃってたんだよ」
「何だそりゃ。どうせ覗くんなら女のとこに行くんだな」
男の身体を見て何になると言うのだ。面白くもなんともないだろうに。
「それとも何か? 男の裸見て悦ぶ質か」
「まっさかぁ。やめてくれない? 鳥肌立ったじゃん」
「お前が妙なこと言うからだろうが」
右腕、左腕と拭いていく。大分濡れた手ぬぐいを絞る。
「あんたの身体、本当に竜みたいだなって思ったから見ちゃったんだって」
「ああ?」
思わず眉を顰めて忍を見る。一瞬、忍が眼を丸くしていたような気がしたが、その顔にあるのは薄っぺらい笑みだけ。この忍はこんな顔をしていたかと、曖昧な記憶を辿る。
「鱗にさ、見えたんだよ。あんたの身体にある痕が」
身体の痕。疱瘡のことを言っているのだと考えずとも理解した。
「なかなか口が上手いじゃねぇか。褒めても情報はでないぜ?」
「情報くらい自分で集めるし。そもそも褒めたんじゃないし。事実を言っただけだし」
拗ねた子どもの様な口調にこめかみが疼く。それに、褒めたのではなく事実を言っただけだと言う。なおさら悪いではないか。
「事実だぁ? あんまりふざけたこと抜かしてんじゃねぇぞ」
「だってさぁ」
忍の姿が掻き消え、目前に現れる。鼻と鼻が付きそうな距離。
「本当にそう思ったんだ」
初めて間近に見た、忍の眼。
思い出した。戦場で忍と対峙した時、眼がいったのは派手な髪色よりその眼だった。
森の色をした虹彩を縁取る濃い茶色。どこまでも深い森が、二つ。
飲み込まれる、と思った。
「斑に散った痘痕」
そっと、忍の指の背が肌に触れる。
ひやりとした固い籠手の感触が、冷えた肌に伝わる。
「何筋もある刀傷」
腹、腕、いたるところにある鈍い赤色の筋をなぞられる。
「背中には牡丹みたいな青痣まで」
いくつか広がっているうちの一つを強く押されて、思わず顔を顰める。
「肩には矢で射られた痕。わき腹には銃創。火傷もいくつか」
自分では見えない場所の傷跡まで、忍は指の背でなぞり、指し示す。
指の背なのは指先が鉤爪状になっている防具だからか。傷つけないための配慮だろうかと皮肉交じりに考えてみる。忍が言う傷跡には、忍によってつけられたものもあるだろう。火傷はおそらく、その主がつけたもの。
「あんたの身体を覆う傷跡や痣が全部あんたの鱗なんだ。戦場で傷つくたびに鱗が増えて、いつか全身を覆ったら、あんたは本物の竜になって天に昇るかもね」
「随分と詩人じゃねぇか。あんたや真田や他の奴らと戦う度に、俺は本物の竜に近付くってことだろ? 悪かねぇお伽噺だ」
視界を占領する忍の顔からは何の表情も読み取れない。忍はこちらの肌に触れていた指を離すと、首に顔を埋めてきた。ふわふわと顔にあたる橙色の髪がくすぐったい。よせとも止めろとも言わず、好きなようにさせてやる。今なら簡単に首を取られるだろうが、それはおそらく無いだろう。もしそうだったらあまりに間抜けな死に様だ。
「俺も悪くないかなって思う。旦那には大地を駆けるのが合ってるけど、あんたに大地は窮屈そうだし。飛び立つ様を見てみたい」
淡々とした声色。普段の軽薄さなど微塵も感じない静かな声。あまりにも感情がない声なので、懺悔を聞いているような気分になる。
「もしさ、本当に竜になるんなら、最後の鱗は俺がつけるよ」
「そうかよ」
「絶対に消えない鱗をつけてやるよ。あんたが竜になっても飛び立てないくらい、とびきり深いやつ」
「飛び立つ前に殺るってか。さっきと言ってること間逆じゃねぇか。ま、せいぜい真田に横取りされないよう頑張るんだな」
低く笑えば、顔を埋める忍の肩もくつくつと揺れている。振動が直に伝わり、ごわついた布で素肌が擦れる。
「俺の邪魔をさせるつもりもねぇがな。まとめて喰って糧にしてやるよ」
「言うと思った」
肩に乗ってた重みが消える。傍らの木の枝に移り、こちらを見下ろす忍。その顔にはいつもの笑みが浮かんでいたが、眼だけがやけに真剣で。
「あんたの飛び立つ様を見てみたいと思うのも本当。だけど、大地に縛り付けときたいのも本当」
――天なんて行かれたら、あんたの顔見れないでしょ?
掻き消える寸前、そんな呟きを残していった。
「顔ねぇ」
そういえば、忍のくせに戦場ではいつもこちらの真正面に立ち塞がっていた。それも顔が見たかったからだろうか。
「さっきも振り向いたとき驚いてたみてぇだしな」
これまで一度も顔を見て話していなかったからか。この顔が好みなのか?
「……わかんねぇ奴」
服を整えながら考えるが、結局答えは出ない。
「まぁ、嫌いじゃないがな」
今度は会うのは戦場だろうか、その時は鱗をつけられるだろうか。そんなことを考える自分の顔が笑っているのを自覚していた。