愛しい物語の終わり
臨也は唐突に肩を引かれ、体勢を崩してオペラグラスを取り落とした。物思いに耽っていたせいか、人が近づく気配に一切気付いていなかった。とある都市、とあるビルの屋上から、オペラグラスは一直線に落下していった。
「あー……」
屋上の端に座っていた臨也は、暢気にオペラグラスを目で追った。地面にぶつかったのだろうが、何の音も聞こえなかった。後ろを振り向くと、白人の男が何事か口を動かしている。臨也は軽く眉を寄せた。いやに早口だ。
男は怒った様子で捲し立てていたが、臨也が膝の上に乗せているものに視線を向けると、ぎょっとして口を閉ざした。臨也は男の視線の先を理解し、ぎこちない手付きでそれを撫でた。にこりと愛想笑いを浮かべる。男が、顔色を変えて後ずさった。
臨也が立ち上がろうとすると、男は慌てて走り出した。一目散に階段の扉へ。扉は勢い良く閉められ、反動で僅かに開いたままになった。
臨也はふっと溜め息を吐き、膝の上に乗せていたそれを顔の前に掲げた。日本から持ち出した、デュラハンの首。死んだように眠っているが、触ると暖かかった。風が吹くと、闇色の髪がさらりと靡く。
臨也は、それに丁寧に布をかけると、旅行用バッグの中にしまった。場所を移らなければならない。バッグを肩にかけ、臨也はのんびりと階段に向かった。扉に手をかけ、開いてしまわないよう丁寧に閉じる。扉の内側には、現地の言葉で立ち入り禁止の文字がペイントされていた。
臨也はもう首以外、何も持っていない。情報屋の伝手は、洗い浚い四木に明け渡した。それ以外に、四木が臨也に求めたのは一つだけだった。この土地を出ていくこと。臨也は快諾した。どうせ、明日機組に狙われているのは変わらなかったからだ。交渉が成立すると、申し訳程度の治療を与えられ、追い立てるように海外に飛ばされた。
海外に降り立ってから、臨也は、全て四木の陰謀だったのではないかと思い当たった。しかし、もう確かめる術もない。帝人に連絡すれば何か分かるかもしれないが、何となくそうする気にもなれないでいた。金を巻き上げられなかった事と、治療に新羅を呼ばなかったのは四木の情けだろう。そう受け取ることにして、臨也は目の前の街に埋没していった。
「君の故郷って、アイルランドだっけ……」
ビルから出た臨也は、口中でぽつりと呟いた。異邦人としての視線を浴びながら、のんびりと人通りの多い方へ向かう。
「そのうち行ってみようか。君の仲間が見つかるかもしれないよ」
露店商が呼びこみの声をかけたが、臨也はついと無視して通り過ぎた。
数年後、ヨーロッパにとある噂が流れた。東洋人の男が、西洋人の女の生首を抱えて放浪しているという噂だ。目撃情報はネットで集められ、その不気味な様相と、目撃されるわりに捕まる様子が無いことから、幽霊ではないかと騒がれた。話しかけても返事はせず、にやりと笑うばかりで、時折奇怪な呻き声を漏らすらしい。どうして女の首を抱えているのか、尾ひれ、背びれ、腹びれまで付き、あっという間にネット世界に広まった。もちろん、日本にも。
あらゆる推測、創作の果てに、幽霊の男と首の女の、悲恋の物語が語られるようになった。ロマンスとオカルトがない交ぜになったような、歪んだ恋の物語だった。