海に沈む赤
上から降ってくる聞きなれた声。
閉じていた瞼を上げれば、こちらを見下ろす白皙の顔。
宵闇でも分かる琥珀の瞳が、微笑みながらも少しだけ心配の色を宿している。
それを見て、申し訳ない気持ちとほのかな喜びが染み出す。
「スガタも散歩?」
「ああ。また浜辺に打ち上げられてるのを見つけるとは思わなかったけど」
その言葉にゆるく笑う。仰向けになった半身にまで波が被る。
始まりの春。星が光る夜。打ち上げられた浜辺。
あのとき助けてくれたのは彼女。いま見つけてくれたのは、彼。
「何をしてるんだ?」
問いかけに笑みを返すだけで答えない。
それを不服に思ったのか、その柳眉がしんなりとよる。普段はあまり見られない表情に笑みが深まる。
彼女と一緒にいるときは優しい笑顔しか見れないから。
それ以外の表情を見ることが出来た。その表情を自分が出すことが出来た。それだけで小さな喜びと優越感が生まれる。ようやく見せてくれるようになった、色々な顔。
そんなことで、何がどうなるわけでもないのだけれど。
問いかけ続ける視線から遁れるように瞼を閉じる。先ほどよりもはっきりと、波しぶきが顔にあたるのを感じる。潮の匂いも濃くなったようだ。
「この島に来ようと思って海で溺れたとき、見たものがあるんだ」
答えは無い。けれどもその気配が傍らに座ったのを悟り、言葉を続ける。
「深い深い青に、溶けた光が差し込んでた」
沈む身体。
重い手足。
おぼろげな視界いっぱいの、青と光。
「小さな空気の泡がたくさん浮かんでて、まるで星みたいで」
軌跡を描く白い帯。
浮かぶ泡は自分が溶けたからだと思った。
「星空は海にあったんだって」
遠い遠い銀河。
包み込む大気。
輝く星。
みんな海にあったのだと、曖昧な意識で笑った。
「ここに沈むのなら、悪くないって」
――そう、思ったんだ。
眼を覆う感覚に瞼を開ける。見えるのは暗闇。感じるのは低い温もり。その温度に彼の手らしいと思うが、彼らしくない接触に途惑う。
「スガタ?」
「沈みたかった?」
「え?」
「そのまま、沈んだほうが良かった?」
純粋な疑問であると分かる静かな声。いま、彼はどんな顔をしているのだろうと、ふと疑問に思った。
「ううん。あのまま沈んじゃったら、スガタたちに会えなかったじゃないか」
波で運ばれた島で出会った大事なもの。
守ると決めた彼女。
彼女を守る彼。
この島に来たのは必然だと確信した。
「そうか」
眼を覆っていた手が外される。こちらを見下ろす顔に浮かぶのはいつもの微笑。それを少しだけ残念に思う。
遮るものが無くなった視界には一面の星の海。
身体の半分を覆う打ち寄せる波。
穏やかな時間。
「それなら、何でこんなことをしているんだ?」
それは当然の疑問だろう。けれども、それを言ってしまったらこの時間が壊れてしまうかもしれない。もう、彼からは貼り付けた笑顔しか向けてもらえないかもしれない。
ああ、でも、
「言ってよ」
促す声があんまりにも、
「タクト」
優しいから。閉じ込めていた言葉が、出てきてしまう。
「似てるから」
「ん?」
「スガタに、海が、似てるから」
息を飲む音が聞こえる。
顔を自身の腕で覆い隠す。耳元でざわめく血の音は、恐怖に慄き震えている。それでも言葉が出てしまうのは、堰きとめる枷が壊れてしまったから。
「最初に会ったとき、ワコは星でスガタは海だと思った。あの星空がある海に、きれいな青に似てるって、でももっときれいだって思った」
声が震える。息が苦しい。目頭が熱い。だから言わなければ良かったんだと、頭の片隅で哂う声がする。
「ワコを守るスガタに惹かれた。でも、どうしようも、ないから」
似ている海に沈めたら、と思った。結局できずに、中途半端な姿を見られてしまったけれど。
そこまで言うのが限界だった。勢いよく起き上がり、すばやく身を翻す。
「タクトッ!」
駆け出だそうとするが腕を掴まれ、バランスを崩す。そのまま波打ち際に押し倒された。
押さえつけられた肩が痛い。こちらを睨みつけてくる視線から顔を背け、眼をきつく瞑る。
「こっちを見ろ、タクト」
「む、り」
「タクトッ」
強く呼ばれ、観念して眼を開く。ゆるゆると顔を動かせば険しい顔が眼に入る。泣きそうな顔にも見えるのは、何故だろう。
「何で決める。どうしようもないって、どうして決める」
「だって、そうじゃないか。いつも、スガタはワコを見てる。ワコを守るって、言わなくても伝わってくる。ワコもそうだ。ワコはスガタを見てる。守りたいって、守るって決めてる」
出会ってからずっと見てきて、一番最初に知ったのは、二人の絆。
波が被さり、全身が濡れた。ちょうど良かった。たとえ涙が流れても、きっと分からない。
「スガタに惹かれた。でも、三人でいるようになって、その時間も同じくらい大切で、大好きになった」
だから、気持ちに蓋をした。
強く惹かれても、どうにかなりたいとは思わなかったから。きっと大丈夫だと思った。今でもそう思っているはずなのに、視界が揺らめくのは何故だろう。
「僕はワコを守る、そして、ワコを守るスガタを守るって決めた」
これは告白なんかじゃない、懺悔だ。
守ることで許されようとしている、卑怯な逃げ。
でも、今ならまだ大丈夫だ。全部なかったことにして、明日になれば、また笑える。三人でいられる。
スガタのそばに、いられる。
「スガタ、どいて。たのむから」
覆いかぶさる身体を押しのけようとしても、腕に力が入らない。
情けなさに手が震えるが、触れる身体も僅かに震えていて。
「ス、ガタ」
見たことが無い苦しげな表情に、思わず目を見開く。
「タクトを海になんかやらない。沈ませない。ワコにだって、やらない」
溜まっていた想いを吐き出すように降ってくる言葉。
声から、表情から、本気なのだと伝わってくる。
「そのまま、僕に沈んでよ」
懇願するような響きが、全身を貫く。
引き寄せられ、抱きしめられ、耳元で囁かれる。
「僕に沈んでよ、タクト。光なんか届かない、星なんか見えない深さまで」
――僕は、君が欲しい。
言葉で、動作で、逃げられないように閉じ込められる。涙が頬を伝う。
「すが、た、すがた、すがたっ!」
腕を動かし抱きしめ返せば、抱きしめてくる腕が一層きつくなる。
それは息が苦しくなるほどで。
ああ、ようやく、望んだ海に沈めた。