哀の呼吸
そういえば、本人も想像がつかないと言って笑っていた気がする。「最後に泣いた時なんて、まったく思い出せないねえ。いつだったかな、生まれた時じゃない?」なんて言っていたので、本当にこの人はろくでもない人なんだな、としみじみ思ったりしたのだ。
そう、臨也さんは傷つけられるのではなく、傷つけるタイプの人間で。
だから彼が涙を流すなんていうのはまったく想像できなくて、でも一度くらい見てみたいと思っていたのもまた事実だった。だって、普段飄々としているこの人が泣いているところなんて!不謹慎にも、少しだけ僕はわくわくしてしまったのである。
しかし、その瞬間は意外にも、ある日突然やってきた。
「臨也、さん?」
やっと吐き出した僕の声は震えすぎていて、あまりにも滑稽だった。けれどいつものように臨也さんは揶揄したりしない。そんな余裕なんてないように見えた。
そんな、まさか。二つの単語が頭の中をぐるぐる回っている。言葉は一人遊びを始め、僕の意思など関係なしに混乱を引き寄せる。
僕の手は中途半端な位置で止まったまま、一ミリだって動こうとしない。
何か言わなければ、いや何かは言えなくても、彼に触れるくらいならできるはずなのに、僕は出来なかった。出来なかった。そう、あえてしないわけじゃない。そうじゃない!
零れたのは、たった一つの涙。
それはあまりにも綺麗だった。この暗い部屋の中、わずかに差し込んだ光に照らされ、キラキラと輝き、あっさり落ちて消えてしまった。後に残るのはその滴が走った足跡だけで、けれどそれすらも余韻を落とすように、胸を締め付けた。
人の涙を、こんなにも美しいと思ったのは、初めてだ。
臨也さんの顔は歪むことなく、けれど何も映し出さない、無感情を貼りつけている。もしそれが見える仮面だったら、僕はすぐさまはぎ取っていただろう。しかしその顔はまぎれもなく臨也さんの顔で、僕の知っている(かもしれない)、僕の知らない(と思い込んでいる)、臨也さんの顔なのだ。
「ごめん、なさい」
「…どうして、謝るの」
「だって、」
傷ついたんでしょう、なんて言葉は、口にできなかった。
臨也さんは傷ついた。たわいもない、臨也さんが「君みたいな子はある日突然いなくなって、忘れた頃に死んでそうだよねえ」と揶揄したこの僕に、傷つけられた。
どうして、どうして、どうして。
僕の存在など、取るに足らないと言っていたのは貴方じゃないですか。僕なんていつでも捨てられると笑ってぬかしたのは貴方じゃないですか。僕を散々傷つけて突き放しておきながら飄々としてたのは、貴方じゃないですか。
なのに、どうして、たった一言、僕の小さな言葉で傷ついたりなんか、するんです。
「僕、僕は、」
「こういう場合って、何て言うべきなのかな」
「いざや、さ、」
「オーソドックスに、『君を好きになって、ごめん』って、言えばいいの?」
わかんないや、ごめん。
ぽつりと落ちた言葉と同時に、またその瞳から光るものが揺れて、溢れて、頬を伝った。
そんなものを見たら、もう選択肢は一つしかないじゃないか。僕はまだ惨めたらしく震える腕を無理矢理動かして、臨也さんを抱きしめた。
今更、僕がさっき言った言葉を嘘だと言っても、きっと臨也さんは信じない。それこそが僕の本心だと、この人は知っているから。
じゃあ、その分だけ、こんな酷い人を愛している僕を、臨也さんは認めてくれているのだろうか。パラドックスな感情はもうずっと、僕の中で同居している。おそらく、この先もずっと続いていくのだろう。
傷つけた分、僕は何を言おう。でも今、僕は無性に彼の名前だけを呼びたい気分なのだ。