糖分
1曲を弾き終えて鍵盤から手を放すと、指先が途端に冷えを感じ始めた。
そろそろ終わりにしよう、あと一度弾いたら終わりにしようと思うのだが、納得や満足のいかない部分があればついもう一度だけ、と指を動かし続けてしまう。
いつの間にかすっかり冷え切ってしまった部屋に、最期の一音の余韻がいまだに響いている気がする。
ゆっくりと息を吐いて、力を抜く。
夢中になりすぎて力の入った体が徐々にほぐれていくのと同時に、寒さが体に入り込んでくる。
小さく体を震わせたところで、こん、と扉が一回だけ叩かれて、振り返るとヘスラーがマグカップを片手に立っていた。
白い陶器に青い模様の入ったそれは、同じ柄の色違いを使っているヘスラーのものではなく、
「飲むだろう?」
どうやらアドルフのために入れられたものらしい。
白い湯気と、ほのかに甘い香りが立ち上る。
お疲れさん、と、軽くねぎらいの言葉と共に渡されて、
「Danke.」
礼を言って受け取るのだが、そのとき、僅かに指先同士が触れた。
ヘスラーが驚いた顔をする。
「……どうした?」
「手、冷たいな」
「ああ、まあ、ずっと鍵盤の上だったからな」
カップを両手で抱えるように持つと、じわりと指先に温もりがしみてくる。
確かに冷たい。
白と黒の規則的な羅列の上でなら、どんなに冷たくとも意欲的に動く指先だが、寒さを自覚した途端に動きが不自由になった気がする。
固いカップから伝わるいささか高めの温度に、じんとしびれがやってくる。
口をつけるのも忘れてカップを抱えていると、ふいにヘスラーが一歩近づいてきた。
「夢中になると、寒さも忘れるんだからな」
優しい苦笑は、アドルフの習性をよく知っているから。
こと、ピアノに関しては時間も何もかも忘れてしまうことも確かにある。多々。
言ったところで止まるものでもないし、ピアノに向かうアドルフを決して止めようとはしないのがヘスラーだ。
「つい、な」
にこりとヘスラーが笑って、そしてその手のひらが差し出された。
カップごと包み込まれる柔らかい感触に、アドルフもつられて笑う。
「温かい」
「アドルフの手が冷たすぎるんだ」
「それは否定しない」
「今日はもう終わりか?」
「そうだな、さすがにそおそろやめておかないと近所迷惑だろうし」
「それはよかった」
「?」
「そろそろ、」
アドルフの両手を包んだ指が、優しく撫でるように動く。
「俺の方が寂しくなる頃だから、な」
ふ、とアドルフは小さく声を出して笑ってしまった。
「寂しかったのか?」
「誰かさんが、ピアノにばかり構うからな」
俺の相手もしてくれ、と、ヘスラーにしては珍しい言い回しをして、両手がそっと引き寄せられる。
カップの湯気をお互いの顎先に受けながら、ゆっくりと顔が近付いていく。
「…………甘い、」
合わせた唇から移ったほのかな甘さは、紛れもなくカップの中身と同じものだ。
「味見してきたからな」
これくらいの甘さ加減が好きだろう、とヘスラーが微笑む。
珍しく積極的なようだから、アドルフもひとつ、らしくないことをすることにした。
「好きだけどな、」
控えめで、けれどきちんと甘さを感じる程度の砂糖を落とした微妙な加減を、ヘスラーは簡単にやってのける。
「一番は、ヘスラーなんだけど、な」
今度は自分から唇を寄せて、暗に好きだと告げると、ヘスラーは一瞬だけ驚いた顔になる。
しかし、
「光栄だな」
すぐに表情を和らげて、そして、額に額が寄せられる。
両手で持ったカップは、二人の間で相変わらず白い湯気をうっすら立てていて、
「飲まないのか? 温まるぞ」
この体勢でどう飲んだらいいんだと、とは言わない。
「………ヘスラーの方が、温かい、から」
しばらくこのままでいい。
告げると、ふ、と笑う気配がして、また顔が寄せられる。
そうして白い湯気に包まれながら、二人の温もりだけを寄せ合う時間は続けられたのだった。
2010.12.18