ひとかけの
伊達殿のお弁当はいつもうまそうでござるなあ、とその男は言った。昼休みになると伊達の隣に移動してきて、その後ろの席の生徒といつも焼きそばパンを食べている。真田という。にこにこと笑いながら椅子に横向きに腰掛け、ぐっと背中を伸ばして伊達の手元をのぞきこんでくる。からだをこころもち引いた。そうして手に持ったプラスチック製の弁当箱を見下ろす。至って普通の弁当である。昨日の残り物の牡蛎フライと、ほうれん草のおひたし、出汁巻き卵と野菜の浅漬け、隙間に詰め込んだ焼きウインナー。毎朝御母堂様が大変でらっしゃるなあ。真田の言葉は伊達には難しい。ゴボドウサマ。一瞬考え、それが母親のことだと理解した。……違うって、これこいつが作ってんの。伊達の前に座っている生徒が箸を伊達の弁当に向けてくる。伊達は顔をしかめて、行儀悪いなと呟き、目を丸くしている真田に向かって目をしばたかせた。なんと、誠にござろうか。そうは言っても冷蔵庫にあったものを適当に弁当箱に詰めているだけだ。朝に弱い母親は伊達が登校する頃に起き出してくる。そのかわり、冷蔵庫の中には弁当に入れられるような総菜が常備されていた。伊達は晩のうちに浅漬けを仕込んで、出汁巻き卵とウインナーを焼いただけだ。残りはそのまま朝食に流用された。
いやあ、だとしてもすばらしゅうござる、某、廚のことはてんで駄目にござる故。言いながら、またぐっと真田は身を乗り出してきた。彼の昼食はすでに終わっている。白いビニール袋が机の上に転がっていた。野菜ジュースのパックが手の中で揺れる。伊達は片眉を引き上げて、もう一度手元を見下ろした。三分の二まで平らげられたそこにはまだ出汁巻き卵と牡蛎フライが一つずつ残っている。……ほら。真田に向かって弁当を突き出すと、彼は目をぐっと丸くさせて伊達と弁当を今後に見た。ようござるか。一個だけな。かたじけない。言いながら、節の目立つ指が出汁巻き卵を一つさらっていった。もぐもぐと口を動かしながら、おいしゅうございますと男は笑み崩れた。食べながらしゃべんなよと伊達は眉をひそめる。
それからというもの、昼の時間になると真田は的確に伊達の弁当のおかずを寄り分けた。作りおきの総菜ではなく、必ず伊達の作ったものをその指先で抜き出してゆく。出汁巻き卵に始まって、アスパラのベーコン巻き、塩鮭の切れ端、豚肉の生姜焼きをひときれ、ちくわにチーズとキュウリを入れた簡単なものまで。本人にその自覚はあるのかどうか伊達には判らない。いつの間にか、詰めるおかずの量は増えた。弁当の上でふらふらと動く真田の指が、正確におかずを摘み取ってゆくのを見るのが楽しみになっていく。
一度、きちんとお前の分の弁当を作ってきてやろうかと提案したことがある。弁当の一人分や二人分、作る手間などそう変わらない。弁当箱などホームセンターで五百円も出せば買える。真田の昼食といえば伊達の見る限りいつも購買で買った総菜パンと野菜ジュースである。しかし真田はぎょっとした顔で滅相もないと言う。おかず一つにそう気を使うこともないだろうに、なにかが真田のこころに触れたらしい。次の日には帰りがけに呼び止められ、てのひらに山ほどチロルチョコを押し込められた。てのひらからこぼれ落ちた小さなかけらがぱらぱらと床に落ちる。馬鹿、そんなに持てねえよ。も、申し訳ない。言いながら二人してしゃがみこみ、散らばったチョコをかき集めた。膨らんだポケットにチロルチョコを押しこみながら床を這いずりまわる様子がひどく滑稽で、伊達はひとりで少し笑った。ベージュのカーテンから教室に差し込む柔いだいだいの光が真田のつむじを焼いている。
……弁当を包んでいるバンダナを解いていると、どうされた、と真田が言った。丸い目が伊達の左の人差し指に向けられている。絆創膏の貼られた指である。朝、たくあんを切っていたら包丁で切ってしまった。それだけである。……あんたこそどうした、それ。いつも総菜パンと野菜ジュースが握られている真田の手には、今日は大きな包みが握られている。昨日の残りものでござる。言いながら包みを解いたそこには近所の有名店の仕出し弁当がある。捨てるのも、もったいなくてですな。伊達は少し肩をすくめて、んじゃ、今日はいいんだなと言った。そうして、真田のためにいつもより一つ多く詰め込んだ鶏のから揚げのことを考えた。
そうやってぼんやりと視線をくうにさまよわせていると、目の前に仕出し弁当が大写しになる。ぎょっとしてからだを引くと、その分だけ距離を詰められた。魚のつみれやう巻き卵、飾り切りされたにんじんと里芋としいたけの煮物。空豆の青さ。赤い生姜の添えられた鰤の照り焼き。黒胡麻のふられたつやつやとした白米。……なに。今日は、伊達殿に。別にいいって。しかし。真田は引き下がらない。目の前に差し出された仕出し弁当は動くことをしない。伊達は口をぎゅっと結んで、別にそういうの期待してるわけじゃねーしと、呟く。横を向いていたからだをなおし、自分の弁当に向き直った。白飯にたくあんの黄色が移っている。伊達はそれを見つけて少しだけ眉をひそめる。
窓から差し込む光が教室に舞うほこりをちらちらと浮き上がらせている。机の天板を鈍く光らせていたそれがにわかにくもった。あっと思ったときには、真田の箸が伊達の弁当から唐揚げを抜き出していった。てめ、なにしやがると視線を厳しくすると、見上げた先、真田は無表情で唐揚げを自分の口の中に放り込んでいる。そうしてその箸で鰤の照り焼きを伊達の弁当に押し込んだ。
呆然と、伊達は無理に押し込まれた鰤の照り焼きを見下ろした。ふと顔を上げると、真田の後ろの席のや、伊達の前の席のもぎょっとした顔で真田を見つめている。真田は少し怒ったような表情で仕出し弁当を口の中に押し込んでいる。それはまさに、押し込むという表現がぴったりな動作であった。伊達は、恐る恐る照り焼きに箸を押しこんでみる。ふっくらと焼き上がった身は、冷えているのに、うまそうだ、と伊達に思わせた。
パン、という音がした。真田が手を合わせている。ごちそうさまでしたと小さく言って、真田は席を立っていった。前の席の生徒が、なにあいつ、と呟いている。さあと肩をすくめて、伊達は鰤を口の中に放り込んだ。うまいと思う。血合いのところからじゅっとあぶらが溢れた。ふと、これは真田の腹の中におさまり彼の血や肉になるはずだったものであり、あの唐揚げは自分のそれになるはずだったのだとと伊達は思う。そういうものが、胃の中で消化されて、やがて今絆創膏の貼られている人差し指の傷を覆う皮膚の一部にでもなるのだろうか。そう思うとなにか背中がそそけ立つような思いであった。