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心臓の音に耳を澄ませる

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イギリスは、それまで枕に埋めていた顔をむくりと起こした。なんとなく気だるいような体をノロノロと持ち上げる。こめかみのあたりがキーンと痛みを訴えた。それもそのはず、シーツに染み込むは言わずもがなの栗の花、呑み散らかしたウィスキーの香りだった。
 冬の、朝。予約もせずに押し掛けたモーグルはあいにくと安物の部屋しか空いておらず、外気の冷たさが室内にも例外なく染みいる部屋へと身を置くこととなった。暖房くらいケチらずにつけろよ、とイギリスは心中で文句を垂れつつも、身を切るような寒さにくしゃみを一つした。くしゃっくしゃになっていた毛布を手繰り寄せる。
「……ってぇ…」
 溜まった目脂(めやに)を擦りつつ、イギリスは折り曲げた自分の膝のすぐ近くにあった男の顔をちらと見た。テキサスは何処へ行ったのか。ていうか何時外したのか。スプリングが跳ねる音を他人事のように聞いてから、自分はずっと目を閉じていたから分からない。ともあれ、すやすやと夢の世界を漂うアメリカは痛んだこちらの腰のことなど、気にもしていないに違いない。
 それでも枕に頬を押し当てて、むにゃむにゃと寝言を呟き続ける様は母性をくすぐるものがあった。眼鏡がないせいか、その表情は幾分幼く見えた。憎々しげにアメリカを見つめていたイギリスも、しょうがないかと肩を落とした。
 合意に至らないそれがもう何度目かなんて、数えるのも忘れていた。



***



 確かに、黙っていればそこそこいい顔立ちをしていると思う。ちゃんとしたスーツを与えて紳士のなんたるかの教えをもたらそうとしたのも、それを見越してのことだった。――決して自分に色をかけさせるためじゃなかった。
 イギリスは尚も眠り続けているアメリカの顔をひたと見つめた。肩から上がこの冷気に晒されているせいか、時折アメリカは寒そうに身をよじらせる。金色の髪の毛が枕をこする音が、そのたびに息を潜めたような沈黙を裂いた。
「……はぁ」
 また、断れなかったのか、俺。何度目かも知れない溜息がぽろりと口許から零れ出た。
 そんなの今更だと人は嗤うかもしれない。むしろこの身体はすでに諦めているのかもしれなかった。本来ならばそういう意図を以て使用されるべきではない箇所が、アメリカを想うだけで疼くのも。空色の瞳がこちらを覗きこんで愛してると云われれば、抵抗なんて術は簡単に消えてしまうのも。今となっては本当に今更のことだ。実にお手軽で、簡単な手段。七つの海の覇者とも呼ばれた自分のこの体たらくには、溜息も出ない。いや、出たけど。

 だけどそれでも。自分はまだ屈するわけにはいかなかった。
「……イギリス…?」
「、あ…」
「おはよう」
「……オハヨウ。」
 びくりと足元のぬくもりが動く気配を感じてイギリスはびくりと肩を震わせた。こちらをじっと見上げる瞳はどことなく昨夜の余韻を帯びていて、何故か赤くなってしまう。そんな目つき、どこで覚えたんだ。
「イギリス変な顔。俺の顔に何かついてる?」
 片方の眉を落としてくすくすと笑うアメリカに、意味もなく慌てた。
「いや、……別に、そういうわけじゃ」
「だったらおはようのキスの一つでもくれよ」
 アメリカは枕に肘をついて、今や自分のそれよりも大きく厚くなった手のひらに頬を乗せた。なおもこちらを見つめる瞳はいたって平生そのものだ。キス、なんて単語さえ発しなければ、それはいつも通りの自分を小馬鹿にする表情と変わらない。こんなに自分の心臓が跳ねることもないだろうに。
「……馬鹿なこと言ってんじゃねーよ」
「馬鹿なことって何だい。好きな人からは一度くらい、マウス・トゥー・マウスのキスが欲しいと思うのは当然だろう?」
 しごく当然のことのようにアメリカは言う。恥ずかしげもなく、プライドも何も持ち合わせていないありのままの自分でぶつかってくる。
 それに応えられない、応えるわけにはいかない心根を、どうして理解してくれないのだろう。親として兄として振舞って来た自分は、最後まで抵抗を続けなければいけない。例え何度足を開かされたとしても、悪いことはノーだと教えてやらなきゃいけない。そうするべくは、イギリス以外他にないのだから。
「イギリス、こっち見て」
「やだ」
「お酒呑まして無理やりしたのは謝るから」
「サイテーだよお前」
 僅差に背けた顔は意地でも戻すまいとした。無意識に唇を湿らせた自分に反吐が出る。まるで期待してるみたいじゃないか、馬鹿じゃないのか。
「……イギリス、好きだよ」
「……」
 次第にじれったくなったのか、アメリカは上半身を手際よく起こすと一方通行な口付を頬に落としてきた。触れ合う裸の熱は、まだ新しい。手に汗が滲んでしまう。
「愛してるよ」
「……」
「信じられないってんなら、君が分かってくれるまで何度だって言うからね」

 嘘を重ねて拒否を繰り返し、捧げられる唇に甘んじて雰囲気に呑まれたフリをして、夜の熱を無傷で浴びるこの糖蜜のような日々は、いつまで続いていくのだろう。いつまで、許されるのだろうか。
 ――本当は手放す時が辛いから。
 失くしたぬくもりを頼りにするのはあまりにも寂しくて苦しいから。
 だからこそ早く、自分を捨ててほしいのに。
「ごめんね、諦められなくて」
 そうして繕ったなけなしの大義名分、未来を恐れる臆病者の浅ましさを、この男はどうして察してくれないのだろう。
「……お前なんて、大嫌いだ」
 モラルで守られた領域をこれ以上崩すわけにはいかなかった。だからまた一つ、分かり切った安い嘘を紡いだ。









心臓の音に耳を澄ませる
(神様、どうか)(正直に跳ねるこの音に、どうか気づかないでください)


 
身体ごと後から抱きすくめて来た太い腕に誘われて、
着実にこみ上げていたものが思わず瞼の裏から溢れだしそうになったから、
慌てて上を向いた。
作品名:心臓の音に耳を澄ませる 作家名:Riria