Veronica.
名は随分前に忘れた。誰からも呼ばれなくなったから。
小さな村で決して豊かではない暮らしをしていた。
細い腕で田畑を耕し、子どもひとりでも生きていける程度の食物を育てていた。
他人からの同情を全て拒み、今日まで何度か死にかけても生き延びてきた。
もはやどうしてここまで生にしがみ付くのか、それすらわからないまま。
ひどく醜く、ただひたすらに生きてきた。
だからその人を見たとき、まず自分とは違う世界の人なのだと思った。
汚れ一つない白い服を身に纏い、金色の髪が風になびく度きらきら光る。
土や埃にまみれて育った俺にはあまりにも、眩しくて、美しくて。
ぼうっと目を奪われていると、その人は急に地面に片膝をついた。
「お迎えにあがりました」
男の話はこうだった。
彼は遠い国のとある王の従者で、俺を迎えに来たそうだ。
俺はその王の血を引いているらしく、王位を継いで欲しいらしい。
聞けば元々居た筈の王族たちは、その地位を妬む者に次々と暗殺されてしまった。
もう残っているのは病に伏せって動けない王と、俺だけしかいない。
このままでは王家の血筋は途絶えてしまう。彼はそれだけは避けたいと必死に訴える。
とても王家に尽くしている彼は、孤児だった自分を拾ってもらった恩があるらしい。
そこで遠路はるばる、俺の元へと彼はやってきた。
聞けば聞くほど嘘みたいな話だった。
だけどこんな薄汚れた子どもに膝をついて頭を下げて嘘をついて、何の得がある?
俺が王族の血筋だとして、この人は実は暗殺者で最後の一人を殺しに来たのかもしれない。
そういうことを考えてもみたが、可能性は色々ありすぎて纏まらなかった。
相変わらず顔をあげない男の、その美しい髪をただ眺めていた。
「俺は、貴方を信じていいの?」
何を信じればいいかわからないから、とりあえずそう聞いてみることにした。
すると男はゆっくりと顔をあげて、下から俺を見上げる。
そして驚くほどまっすぐに見つめられ、思わず息が詰まった。
「はい」
短い返答。だけどそれだけで十分だと思った。
俺は口の端を上げてみせる。あぁいま俺、笑っている。
ただ食って息をして生きているだけだった俺が、笑っているなんて。
昨日までの醜い日々はきっと今日この瞬間のためにあったのだろう。
俺は静かに、男に左手を差し出す。お世辞にも綺麗とは言えない手だった。
「俺は貴方の忠誠とやらを信じよう。だから貴方はそれを裏切らないで欲しい」
左手は握手のつもりだった。だから彼の行動には心底驚いた。
彼はまるで宝物を触るような手つきで俺の左手に触れる。
こんな汚れた手なんかよりずっと、彼の手のほうがずっと綺麗だと言うのに。
あまりにも愛おしそうに大事そうに、彼はやさしく俺の手をそっと取る。
そして手の甲に短いキスを落とした。
「今この瞬間を持って、私の主は貴方ただ一人です。ヒビヤ様」
そう呼ばれていたときもあった。自分でも忘れていた名を、彼は知っていた。
捨て去った意味のなかった名前も彼の口から出るとこんなにも輝くのか。
不思議な男だと思った。まだ出会って数分しか経っていないというのに。
彼の瞳からはゆるぎない忠義を感じた。何がそこまで彼を動かすのか、俺はまだ知らない。
だけどこの瞳には応えなければならないと、それだけは何となくわかった。
そして俺は従者のデリックと、王都へと旅立った。