幸福な食卓に向かうための原則
「だって君んとこの料理、とても旨いんだよ!!」
屈託のない誉め言葉に他意はないのだろうが、精度未知数、どころか破壊されていると噂の舌にそう評されても正直釈然としないのは確かだった。ある程度手間隙かけたものだけに尚更(…凝ったやつでなく、できるだけ普通の献立で、という注文だったが、だからといって客人に本当に粗食を饗するのは矜持が許さないのだ)。こちらはといえば、隣りの兄分の食卓に比べればいくらか質素だが、質素なりの美食を自認している。これだけ経験すれば、健康優良食の味付けが身にしみただろう。
そんな風に思いだしたころ、見事減量にも成功したらしい若者は、自宅で取れたという大量の食料を持参してやってくるようになった。
「やー、キクの料理旨いんだけどね、やっぱり自分ちの味も懐かしくってさ」
作ってよ材料持ってきたから、と平然と要求する。三つ子の魂百までというから、味覚が矯正されなかったことは驚くまでもない。むしろ、極彩色と熱量と質量において他の追随を許さないあの料理でさえも、"郷土の"と冠しさえすれば舌の上に郷愁を齎しえるのかと感動したほどだった。
「分量とか味付けとかは日本風にしてくれちゃって構わないからな。その方が、その…身体によさそうだし」
「いいですけど、結局量食べたら同じことですからね」
溜息混じりの忠告も、一切聞く耳を持つ気がないのは、火を見るより明らかだった。
毎度のように大荷物を抱えたアルフレッドをひとまず厨房に通す。
過去の飢餓状態が嘘のように、今食料は潤沢にある。どころかむしろ余らせてさえいるほどで、お陰で自宅の菜園は大分規模を縮小した。自分で作らずとも余所で買えばいい、という思考にまま至るのは、以前横暴だと感じていた連中の立場に、良くも悪くも近づいたからなのだろう。また、そういう取引を前提に付き合っていくしかない相手も増えた。この男などはその筆頭格といっていい。
互いにどこかしら寄りかかりあいながら均衡を取るやり方は間違いではない。ただ、そこに働くある種の駆け引きが得手ではないのだ。依存する制度にかまけた挙げ句、いずれ独力で立つことが出来なくなってしまうのではと考えると恐ろしい。
「ところで、このトウモロコシは何なんです?」
中身を検める手を暫し止めて、収納扉の中の調味料を興味深そうに覗き込んでいる背中に問い掛けた。彼はひょいと振り返って答えた。
「ああそれ。家畜の餌にと思って。君んとこでもたくさん買い始めたそうじゃないか、鶏とか豚とか。」
最近ではいくらか見慣れた、あの両腕を広げる大仰な身振りのどこまでが揶揄含みなのだろうかと、邪推が働く。前に比べて肉食が増えた、味の好みも多少変わった。それが誰の影響かなどと、考えるのも業腹だ。
でもやっぱり肉はビーフだよな、と言って献立に注文をつけてくるのに、適当な相槌を返しながら菊は身支度を整える。そのそばから、アルフレッドが手を伸ばしてきた。
「料理も好きだけど、君のこのユニフォームも良いな。カッポーギっていったっけ」
じゃれ付くように後ろから抱き付いては、その明らかな体格差を、彼は心の底から愉しんでいた。他意がないはずがない、と今では確信している。かつて己が残した傷跡に時折敢えて挑発的に触れてみせるのも、それ以外の時は、過剰に捕らえなければ侵犯には当たらないいという程度の接触を重ねるためではないか。実際、触れられたところから徐々に身体が病んでいく気がしている。その作用として自己同一性を失う恐怖を持たないのは、おそらくこの男くらいのものだろう。
とは言え、意識はすでに凭れあう世界のしくみに律されている。拒むことを選択する余地はあるのか、と言えば、相応の明度で否であるのだと、思う。
「お世辞は後でいただきますから、今はあっちで炬燵にでも入っててください。」
仕度がすすみませんから、とアルフレッドを厨房から追い出しながら、菊は舌を犯す毒を直接粘膜に植え付けられたのは何時だったかと、ふと思い出していた。
作品名:幸福な食卓に向かうための原則 作家名:みつき