雨の日とお兄さま
空はそれほど曇ってはおらず、確証は持てなかった。だから傘は持たなかった。
午前中は執務室へと籠もり、昼食を済ませてから街へと出かけた。リヒテンシュタインの買い物に付き合う約束をしていたのだ。
気配だけで気候が読めるのは、戦場に出ていた頃の名残だ。染みついた習性は消せない。だから時折、わざと読み違える。
今日のように、間違えたとしても不思議ではない時。多少濡れたとしても、致命的でないような場合。
ついうっかりした。失敗してしまった、というような顔をしてみたいと思う。並みの人間のように、間違えることを選んでしまうのだ。
「お待たせいたしました、兄さま」
妹の声で物思いから覚め、明るい呼びかけに応えるようにスイスは振り返った。
いつぞやにリボンを買い与えた雑貨店は、それからリヒテンシュタインの気に入りの店となっていた。今日も食料の買い出しついでに、ハンガリーに贈る髪飾りを選ぶのだと張り切っていた。
もうすっかり馴染みになった店で、店主を相手にリヒテンシュタインは一生懸命に贈り物を選んでいた。その選別に参加することには気乗りしなかったスイスは、入り口付近の窓から空の色を見上げていた。
リヒテンシュタインは小さな紙包みを手に、幸せそうな表情を浮かべ、スイスに寄り添うように横に並んだ。
「……雨が降ってきたようである」
「あら。……しばらく雨宿りでもしたほうがよさそうですね。でもここだと、お商売の邪魔かしら」
店主を気遣うようにリヒテンシュタインは後ろを振り返った。その声が聞こえたのか、店主は一旦奥へと引っ込み、すぐに戻ると二人の側へと近づく。
差し出されたのは傘だった。
あいにくと1本だけですが、大きめなのでお二人でも入れると思いますよ。常連客に対してそんな愛想のよい言葉を添え、店主はスイスへ傘を手渡す。
軽く礼を言い、素直にそれを受け取ると、スイスは先に扉を押し開け外へと出た。扉に付けられたカウベルがからんからんと音をたてる。
リヒテンシュタインは店主に再度礼を述べ、スイスを追うように外へ出ると、スイスの手にある傘へと手を伸ばす。
「兄さま、お荷物がいっぱいでしょう。私が拡げます」
「ん? そうであるな。頼む」
食料品の袋を抱えるスイスを気遣い、リヒテンシュタインは傘を取った。少し戸惑いながらも大きな傘を拡げる。
「まあ、本当に大きい…! それに私たちの軍服とお揃いのようですね」
無愛想なくすんだ鴬色の傘をスイスへ手渡しながら、リヒテンシュタインは嬉しそうに微笑んだ。
例によって今日も二人は揃いの軍服で街へ出ていた。考えようによっては若い娘の虫除けにはちょうどいい。そんな風に思ったスイスは、リヒテンシュタインの趣味を鷹揚に許していた。
「まさかハンガリーへの贈り物も、こんな色を選んだのではあるまいな?」
「いいえ。橙色のリボンにいたしました。ハンガリーさんは髪が長いから、太めにして。それと、リボンに飾る小さなお花飾りも」
楽しげに報告しながら、スイスにぴったり貼り付くようにして、リヒテンシュタインは傘の中へと収まった。
雨の為か人通りもやや少なくなり、夕方にはまだ早いのに薄暗くなる中、二人は石畳を踏みしめてゆっくりと歩いていく。
「傘もあることだし、慌てずともよいぞ。足元も濡れているからな。転ぶと危ないのである」
「はい。兄さま」
普段の服より重さのある軍服を纏いながらも、軽やかな足取りでリヒテンシュタインは歩いていく。スイスはその足元へと注意を向けながら、着実に歩みを進める。
「こんな天気であるのに機嫌がよいことだな」
「はい。雨は嫌いではありません。兄さまに拾っていただいた時のことを思い出します」
「……それほど良い思い出でもなかろうに」
スイスは呟いた。自分と出逢った後はともかく、それまでに随分ひどい思いをしたはずだ。飢えと寒さと不安で、見つけた時のリヒテンシュタインの眼は、色を失ったように虚ろだった。
「……そうですね。一人でいる時の雨はあまり好きではないかもしれません。でも、兄さまとご一緒の時は嫌なことなど思い出したりいたしません」
そう応えながら、リヒテンシュタインは兄の軍服の布地をそっと握る。かすかな感触に、スイスは足元から目線を上げ、妹の顔を見る。
血色のよい頬。しっとりと艶を含んだ髪。軍服を着ていても、隠しきれないほどの輝きを放つ姿がそこにあった。
あの頃の面影など、どこにも見あたらない。それは互いの記憶の底へ沈んでいる。それでも忘れ去ることはないのだ。
それと同じように、リヒテンシュタインと出逢う前の記憶も消えることはない。ことあるごとに思い起こしてしまう。血と砂埃、雨と泥、警戒すること、疑うこと、いつ終わるともしれない争いの日々。戻る場所も逃げ込む場所もなく、迎えてくれる相手もいなかった。
「兄さま」
リヒテンシュタインは、互いの歩みの邪魔になるほどぴったりと、身を寄せ身体をくっつけた。驚いたようにスイスは足を止める。
「どうしたのだ。危ないではないかリヒテン」
「……兄さまは、ときどきそういうお顔をなさいます」
「なに? どんな顔だというのだ」
「上手にお伝えできませんが、先程のお顔です。それを見ると私、こんなふうに兄さまのお側にいたくなるのです。……いけないことでしょうか」
唐突な申し出に、スイスはその場で目を瞬かせ、じっとリヒテンシュタインの顔を見つめた。見つめられた本人も、大真面目な表情でその視線を受け止めている。
「……いけなくはないが、公共の往来ではやめておくのである。人通りの邪魔になる」
「あ。……そうですね。おっしゃるとおりです」
指摘を受けると、素直にリヒテンシュタインは身を離し、軍服を掴む手も離しかけたが、スイスは制止した。
「それはよい。……歩ける程度に側にいればよいのである。離れすぎても雨に濡れる」
「はい。ありがとうございます」
嬉しげに微笑み、リヒテンシュタインは再びスイスの軍服を掴み、適度に寄り添うように身を寄せた。
「邸へ戻ろう。人目のないところであれば、お前の好きにするがいい。……我輩も、嫌なわけではない」
リヒテンシュタインからは目線をそらし、かすかに頬を紅潮させ、スイスは小声で呟いた。その言葉に、リヒテンシュタインは嬉しげに頷く。
「……はい! では早く帰りましょう、兄さま」
「こら! いきなり走るのではない、危ないと言っているのに! ……リヒテン!」
走ると言っても小走り程度で進み始めたリヒテンシュタインにつられたように、スイスも早足で歩み始めた。
遠い日の想いは再び記憶の底へ沈む。
こうして雨の日にひとつひとつ暖かな思い出を積み重ねていけば、いつか記憶の全てが塗り変わり、豊穣の雨が呼び起こす想いだけに変わっていくのだろうか。
この愛しい輝きが傍らにあれば、それもあながち不可能ではない。そんな風にスイスは思う。
いつか、雨がもたらす歓びだけが互いの心を満たすようになればいいと、そう思えるのだった。