舌切雀に相応しい
黒田官兵衛は薄気味悪い思いを抱えながら、前髪の隙間からそっと傍らの男の様子を窺い見た。視線の先で大谷は常と同じく、全身に布を巻き、面を被り、輿に乗った異様な風体で宙を漂っている。だが、その面の奥から覗く眼が何とはなしに緩んでいる―――ような。
もちろんそれは一瞬のことだ。大概はおや、と思って見返した瞬間には鬱々とした昏い眼に戻っている。しかし、例え一瞬であれこの男が柔らかさ、のようなものを纏うことは珍しい。
少なくとも官兵衛は、少し前にそれを初めて見た時には、瞬間的にその場から逃げ出したくなるほどに衝撃を受けた。
この男は、この世のすべてを呪う怨念の塊だ。覇王と軍師が君臨し、力ある存在に惹かれた者たちが集まる豊臣軍の中で、大谷の内部には豊臣への忠誠も憧憬も微塵もないことを官兵衛は知っていた。巧みに上辺を取り繕いながらも、彼が望んでいたのは単に周囲の悉くを圧倒的に、あるいは真綿で絞めるように、確かな不幸へと導くことである。官兵衛の優れた眼にはまざまざとその心が見えていた。大谷には秀吉と半兵衛の才知に対する敬意こそあれ、崇拝はない。それは例えばあの、秀吉と半兵衛を神と崇めんばかりの男とは全く違う在り方だ。
「三成もなあ、もうちっと融通がききゃいいんだがねェ」
連想した結果を口にすれば、男が横目で視線を向けた。
「黒田よ、戦の前に無駄口か?」
「へいへい。無駄な口も叩きたくなるっての。小生がこーんなに次から次へと戦、戦で働いてんのに、最近秀吉と半兵衛の奴は城で悠々と過ごしてんだからなぁ。ちょっとは自分で動けっての。足元掬われても文句は言えんぞあの馬鹿天狗どもめ」
「……そういうことを言っておるとナァ」
官兵衛がはっと口を噤んだのと、鋭い殺意を感じたのは同時だった。咄嗟に膝を落とした官兵衛の頭上ぎりぎりを、横薙ぎの刃が走る。取り残された前髪が数粍はらりと宙に舞った。風圧が異様に近い。
「あっぶねえ!」
官兵衛は叫んだ。その声に対して、鋭い怒号が返る。
「貴様ァ、今何と言った!!」
「まーたお前さんかい!一体いつもどっから聞いとるんじゃあ!」
全くいつの間に現れたものか。官兵衛と大谷の背後で黒い怒りを迸らせて刃を構える男は、つい先程連想した相手――三成だった。牙を剥いて唸りながら、切れ長の眼に激情を乗せて官兵衛を睨み据える。官兵衛が不遜な己の内心を開けっ広げに零し、それを神への冒涜であると三成がいきり立つのはこれが初めてではない。
「懲りずに暴言を繰り返す愚か者め……よもや秀吉様と半兵衛様を……ッ愚弄する輩がこれほど近くにいようとはな!」
「ええい落ち着けってんだ!」
言いながら再び三成が振るった刃を、慌てて避ける。だが避けた方向へ再び迫りくる刃の素早さは、以前にも増して速くなっていた。自分の得物を抜く間もないが、連続して避けるにはさすがに厳しいと認識した官兵衛は、焦った声で助けを求めた。
「見てないで何とかしたらどうなんだ刑部!三成の配置はここじゃないだろうがぁ!」
その様子を案外愉しげに見ていた大谷は(おそらくは官兵衛の自業自得の不運が面白いに違いない)、官兵衛の言葉にゆったりと口を開いた。
「三成。あと二十回斬って仕留められなんだらひとまずは戻るが良い、この男に刃を向けるは時間の無駄よ」
何せぬしの言う通り懲りぬ男であるからな、と哂う大谷に対し、官兵衛が「二十って何だおいこら!」と突っ込みながらも器用に刃を避ける。そして三成は大谷の言葉にも答えずに黙々と刃を振るった。
正直、きつい。飛び、潜り、跳ね、反り、とあらゆる動きで白刃を躱しながら内心泣きそうになった官兵衛が、いやいや天下を取るまでは死んで堪るかいと自分を奮い立たせた時に、唐突に刃の嵐が止んだ。
そうして勢い余って余分に飛び跳ねた官兵衛を、怒りを秘めながらもどこか白けた眼で睨んだ三成は、「次に不快な言葉を吐いたら首を刎ね飛ばす」と吐き捨てた。続けて大谷に眼を向ける。
「刑部。貴様がいながらこの馬鹿に愚かな真似を許すな」
「馬鹿をするから馬鹿なのよ」
「小生を馬鹿馬鹿言うなあ!お前ら生意気なんだよ!」
言った瞬間にごん、と鈍い音が響いた。官兵衛の脳天を直撃した衝撃は生半可なものではなく、先程まで全神経をかけて回避していた分油断していた官兵衛は、あっけなく地面に崩れ落ちた。
勿論、打ったのは大谷の操る珠である。
「さ、これでよかろ。行け、行け」
大谷が言えば、三成は地面に倒れた官兵衛の間抜けた背中を見つめ、ふん、と蔑むように鼻を鳴らして去って行った。
しばしの沈黙ののち、大谷が呆れたという声音を作り上げて告げる。
「いつまで寝ている。いい加減起きヤレ、戦も始まろう」
「誰のせいだと思っとるんだ!」
叫びながら身を起こした官兵衛は、本気で痛む後頭部を手のひらで擦った。
「刑部、お前さんは不意打ちとか騙し打ちとかが本っ当にうまいもんだよ。人の隙を穿つのがな」
「ぬしに褒められるとは思わなんだ」
「褒めとらんわ」
官兵衛は軽口のように返したのちに、ふと首を傾げる。
「三成はなんだ、つまりお前さんの言う事をすんなりと聞いたわけか」
言葉通り、二十繰り返したのちに突然刃を納めた三成を思い返して、官兵衛は言った。
「いつのまにやら手懐け始めてるのかい。悪趣味なお前さんでも、あれは範疇外じゃあなかったかね?」
さらっと告げた官兵衛を、大谷は緩慢な動作で首を巡らせて見つめた。
――確かに、つい先ごろまでは、大谷はあの扱いにくい白刃のような男に微塵も興味がなかった。そういう細かな所をしかと把握しているのが、この男が愚劣なようでいて油断ならないことを示している。元来、あの軍師に匹敵すると言っても良い冴えた頭を持つ男ではあるのだ。
頭の中で官兵衛に対する認識を書き換え、警戒を強めながら大谷は唇を緩めた。
「あれはな、案外カワイソウな男なのよ……」
大谷はくつくつと哂いながら囁いた。
「善きも悪しきもわからぬ不幸な男。我に近づくことを厭うことすらできなんだ」
大谷の声は、暗い。その音だけを聞けば、何だいつもの悪趣味が出ただけかと流したろう。
だが官兵衛はそれを呟く大谷の顔を見て、おや、と違和感を覚えた。重く垂れた前髪の裏で細められた眼が、読み解くようにそれを見つめる。そうして、それを眼にするのが初めてではないことを思い出した。
そこには幾度か見た、例の柔らかな色が、滲み出るようにして浮かんでいた。
「ああ。なるほど」
官兵衛は、その瞬間に近頃の疑問が晴れたものだから、この上なく明朗な声で言った。
「そりゃあ普通に嬉しかったんじゃないのかい、お前さん。だから最近機嫌が良いのか!」
余計なことを言う癖は、いつまで経っても直らぬらしい。
せっかく不幸の種を見つけたと教えてやったのに、不快な方向へ曲解された大谷は、何故か馬鹿馬鹿しいと哂うよりも先に苛立った。
「……ぬしの浮ついた言動には、枷を嵌めて重しをつけるくらいでちょうどよかろ」
呟いた大谷が、三成を煽ってまさにそれを実行するのは、また後の話だ。