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部屋に充満したきつい百合の芳香は憂鬱なほど甘ったるくもうすっかり錆びついて鈍くなった感覚に焼きつくようだった。
白いバスタブには溢れんばかりに埋め尽くされた真白な花弁を湯船に色をなくしたフランシスが眠っている。二度と開くことのない瞼の奥のブルーをもう一度眺めたいなと思いながら新しく摘んだばかりのスノークイーンの束を降らす。
「なあ一度くらい俺に譲ってくれてもいいんじゃないか?」
 抜け殻に応えはなく朽ちることもなく、いつかの明け方に眺めていた静かに眠る横顔のままだった。手入れの行き届いた血色の良い肌理細やかな皮膚の下は生命としての機能を続けているように見えるのにもう皮肉に満ちた笑みを刻むこともないのだ。
 その時がきた日、今まで忘れていたのが嘘のようにぽっかりとその記憶は封印を解かれちょっと寂しそうに彼は微笑んで俺の手を離した。
 どうしてこんなに重大でかつ当たり前の摂理を忘れてしまっていたのだろう。
 ぺたりとリノリウムの床に座り込み着痩せして見える胸に耳を密着けても空虚な鼓動が聞こえるだけだ。深く深く香りを吸い込み、薄いシャツだけを纏った皮膚に軽く歯を立てる。
 最期の夜の声が壊れたレコードのように何度も何度も脳内で再生されて忘れてしまわないように抵抗しているようだった。次第に外界の音が遠くなっていくのはむしろ都合がいいくらいだと感じているのだから自分らしくもない。
『…変なことに使わないでよ』
 茶化したような揶揄い。優しく髪を梳く細長い指。
 もうとうの昔に忘れてしまったと思っていた初めて求められた夜と重なる想い出。あんなに懐かしかったのは未来の記憶だったのだ。そしてそれは過去の記憶になる。
 沢山の愛を囁いた唇に触れて一度も告げたことのない愛の言葉を乗せる。
 冷たい琺瑯の縁に強く瞼を押し当てて昏い独占欲を噛み締めたまま小さく哂った。頬に垂れた柔らかなハニーブロンドを撫で上げてキスを落とすと立ち上がりバスルームを出て鍵をかけた。



 リビングは自由が利かなくなってきてからもマシューが定期的に片付けに来てくれているようで美しく整えられていたのに、今はその一部を雑多なガラクタで区切られた領海線に占拠されていた。
「なんだ、起きてたのかい?」
 いつもはただ喧しさだけを主張しているテレビは見るでもないニュースのチャンネルを垂れ流していて、アルがぴょこんと飛び出した前髪を振り上げて声をかけてきたのは解った。
「酷い顔色じゃないか。ちゃんと食べてくれないってマシューが困ってたんだぞ」
 元々食べることには頓着がない方ではあったが味覚が鈍ってくると一段と億劫になった。ひとつずつ欠けていく俺を根気よく面倒みてくれるマシューの姿を前にも何処かで見たなと思い、それはアルが関係あることだったようなそうでもないようなぼんやりとした曖昧な記憶を探る。
「…もう俺の声も聞こえないのかい?」
 無理矢理に腕を引かれて誰かによく似た青の瞳が視界に映った。
 そんなに不安に思うことなんてないのにと奇妙に穏やかな愛しさだけが心に溢れるけれど返してあげられる言葉は何処にも見つからなかった。
「ねえ、アーサー」
 抱き締める腕の強さと熱さが心地いい。


「君はそうやってフランシスの匂いだけを記憶に残していれば満足なのかい?」


「もしも…もしもここから抜け出す方法が見つかったとしたら」
 熱は温度の高い方から低い方へ散逸し拡散していく。拡散し切って熱が移ればまた反転して熱量は移動を続ける。永劫に。
「俺と一緒にきて欲しいんだ」
 ああ、彼は何を言っているのだろう。
「ど…して…?」
 声は掠れて喉に纏わりつき空気の抵抗に負けてしまいそうだ。
「どうして、だって?君はこれでいいと思ってるのかい!?」
 激情が大気を揺らす。初めて見つけた時のアルは俺の膝くらいまでの高さしかなかった。それは距離にするとどのくらいなのだろうか、俺は知らない。
 フランシスが今、俺とどのくらいの距離があるのか知らないのと同様に。
「いつまでもこんな風に出口と入り口が繋がって繰り返されてただけだったなんておかしな話だろう!?それを誰もおかしいって感じていないことが信じ難い事だよ」
 過去は未来になり循環して永久機関は果たされる。
「俺は今の君を手放す気はない。絶対にこの狂った輪っかから抜け出して…」
「終わりが…欲しいのか…?」
「それが終わりだとは限らないじゃないか!」
 大きな手が頬を包み硝子越しに降る雨の雫が激しくなる。
「いつだって怖いんだ。今度はもう君が俺を見つけてくれないんじゃないかって…同じ未来を繰り返してるだって?過去がそうだったからってどうして未来もそうだなんて信用できるんだい?」
 もうすぐまた忘れてしまうのだ。
 最後まで残る記憶は孤独の時間が長いほどに寂しさになるのだと、マシューがぽつりとフランシスに漏らしたのをふと唐突に思い出した。あれはいつの記憶だろう。
 もしも俺がこのままアルの手を取ったならあいつはどうするだろう。
 俺が居ない世界を同じ顔をして生きるのか。
 それとも俺に似た誰かと生きるのか。
 巡り合って啀み合って求め合って認め合って−−愛し合って。



 そしてまたこの場所に着いた時、その誰かは確かに俺だった。






 一面の緑。
 湿った草を踏み分けて進む足元は慎重に。
 柔らかな靴はあまりここを歩くのに適してはいない。
 視界は低く狭く暗い。
 木漏れ日は弱くそのコントラストが尚更に闇を深くする。
 何処で咲いているのか百合の甘い香りが纏わりつくように鼻腔を刺激し少し疲労と気が紛れる。行く手を阻む野茨の蔓は鋭い棘で飾られ掻き分ける手を容赦なく傷つけた。
 古い物語の王子になったような気分だ。
 仮初めに与えられた肉体を苛む苦痛では抗えない程に、細く繋がれた糸は目には見えないのに強い引力で呼ぶのだ。


 開けた視界には光が充ち、鎧う針の内側の脆弱な姿を曝し、また物語は始まる。






Waive「Spanner」
ナナムジカ「Ta-lila〜僕を見つけて〜」
作品名:spanner 作家名:天野禊